実話風ですが,全くのフィクションです。
午前8時半。私は自宅の居間でTVを観ながらクロワッサンを頬ばっていた。TVではエロ写真家のくせにいつの間にか医療評論家と自称している気色悪い奴が得意げに何かしゃべっている。次に画面が変わり,ベンツが1台買えるくらい高価だとされるヅラを載せた司会者が相変わらず取るに足らない感想を吐いている。「TVは時計代わりにつけているだけなのだから,画面全体を時計にしてくれればいいのに。それにしてもあのヅラがベンツか」などと思いつつコーヒーをすすっていると,ケータイから「ウルトラセブンの歌 パートII」の着メロ。天城先生からだ。天城先生は美人で,ゴドラ星人やキュラソ星人に似ているわけではない。発信者別の着メロの選び方はいいかげん,というか何も考えていない。おっと,それどころではない。この時間帯の電話の用件はだいたい想像がつく。
「諸星先生,ごめんなさい。息子が急に熱を出して」
「え,大丈夫? ああ,こちらは心配なく。休んでくれていいから」
「すみません。実家が近ければ親にみてもらうんですが」
「いやいや,やっぱりお母さんがいてくれたほうが子供も安心するし」
「本当にいつもすみません」
「気にしなくていいよ。幼児は急に発熱するからね。うちの子もしょっちゅうだったよ。こっちは大丈夫だから。それより子供さん,お大事に。じゃ」
さて困った。いつもは私を含めて医師6人で手術室4列の麻酔をこなしているが,今日は古橋先生が子供の入園式で休みをとっているので5人で4列の予定だった。ところが天城先生が休むので4人で4列になる。数字の上では足りているが,これでは誰も手術室を抜けられない。食事交代も難しい。それに誰か一人は病棟で翌日の麻酔のICを担当しなければならない。私はこれ以上ケータイが鳴らないことを祈りつつ,愛車のウィンダムに乗って病院に向かった。私も医師の端くれなのでトヨタのクルマには乗りたくないが,トヨタが嫌いになったという理由だけでクルマを買い換えるほどの富豪ではない。しかし日産かホンダあたりがミクラスという名のクルマを発売してくれたなら,少々無理してでも買うつもりだ。アギラでもいいけど。
病院に到着したのは午前9時半を少し回った頃だった。手早く着替えて手術室の中央廊下に出るとA室に入り,麻酔の準備を始めた。1例目は胃全摘術で10時に入室予定だった。硬膜外を併用する症例が1例目で良かった。他の部屋を気にすることなく硬膜外に専念できる。
患者は予定より5分ほど遅れて手術室に到着した。こんな日に限って硬膜外やライン取りに難渋するのではと危惧したが,どちらも滞りなく完遂した。そして手術が始まった頃に蘇我先生がオペ室に入ってきた。
「諸星先生,おはようございます」
「おはよう,蘇我先生。実は天城先生が急に来られなくなって,それで蘇我先生には病棟で明日の症例のICを頼みたいんだけど」
「えー? 私,麻酔のムンテラはしたことないですけど」
「先生が所属していた循環器内科でも心カテのムンテラはしてたでしょ。大丈夫,それに比べればずっと簡単。緊急PCIと違って時間は充分あるし,この麻酔説明書に書いてあるとおりに説明してくれればいいよ。で,最後に患者本人と同席者に署名してもらうだけ。麻酔器とモニターのお守りをしているより気が楽だと思うよ」
蘇我先生は小冊子を受け取ると,ページを繰りながら顔をしかめた。
「こんなにたくさん説明するんですか?」
「書いてあるとおりに読めば1時間もかからないさ」
「悪性高熱とか歯牙損傷はわかりますけど,これは・・・」
蘇我先生は説明書の一部を読み上げ始めた。
「『お年寄りでは,持病がなく普段元気にしておられる方でも朝見たら寝床で冷たくなっていたということがあります。あの世からのお迎えはいつなんどきやってくるかわかりません。それがたまたま手術中ということもあり得ます。医師は神様ではありません。天寿を全うされる方をこの世に呼び戻すことは不可能です』・・・これはちょっとやり過ぎではないですか?」
「何を言ってるんだ。君が産休している間にも患者の権利意識はバルンガのように膨らんできている。『医療訴訟は医師の説明不足が原因。患者のせいではない』と公言してはばからない連中もいるんだ。これでもまだ説明が足りないくらいだ。そろそろ『AEDは死人を生き返らせる機械ではありません』も付け加えようかと思っている」
「これだけきついムンテラしたら,患者は麻酔を拒否しませんか?」
「麻酔無しでは手術は受けられない。麻酔を拒否するということは手術も拒否することになる。それはそれで仕方ない。麻酔中に有害事象が発生し,後日患者から『麻酔のリスクがこんなに怖いとは知らなかった。知っていれば麻酔を受けなかった』と訴えられるくらいなら,最初から麻酔を拒否してくれた方がありがたい。とにかく,麻酔のリスクの説明を受けた患者の2人に1人は恐怖に涙し,3人に1人は遺書を書き,4人に1人は自宅に逃げ帰り,5人に1人は屋上から飛び降りる,それくらいのつもりで厳しくムンテラしてきて」
「麻酔のムンテラを苦にして飛び降りた人っているんですか?」
「二十年ほど前,ある若い麻酔科医が患者に麻酔の説明をした。そしてその患者は夜中に屋上から飛び降りた。しかし,ムンテラの内容がきつかったわけではない。その麻酔科医は患者に『僕も麻酔の仕事がんばりますので,あなたもがんばって病気と闘ってくださいね』と言ってしまった。患者にはうつ病という合併症があった」
「その麻酔科医,責任を問われなかったんですか?」
「病室は個室だったし,ムンテラ時に患者の家族はいなかった。病院は11階建てだったので患者は即死。誰もムンテラ内容を知らない」
「その若い麻酔科医って・・・」
「ま,それはともかく,今日のICは5例だから,よろしく。手際よく済ませればいつもより早く帰れるかもしれないけど,くれぐれも端折らないように」
蘇我先生はムンテラが終わったら帰宅していいと聞いたとたんに機嫌が良くなり,急ぎ足で病棟に向かった。
とりあえず,これでICのほうは何とかなりそうだ。あとはオペ室のことだけを考えればよい。私は術野を見て胃全摘術がインオペにならないことを確認し,筋弛緩薬をたっぷり投与した。これで当分はバッキングで呼ばれることはない。もうすぐここは麻酔科医が数十分間いなくなる。
しばらくすると,予定通り隣のB室にTKAの患者がストレッチャーで運ばれてくるのがドアの窓越しに見えた。私はモニター上の数値と人工呼吸器をチェックした後,A室を出てB室に入っていった。患者は60歳代の小柄な女性。最近の整形外科では肺血栓塞栓症予防のためにフォンダパリヌクスを使用するため,硬膜外は入れないことにしている。ナースたちが患者のからだに手早くモニター類を装着するやいなや,私は患者の顔にマスクをあてて酸素を流し始めた。静脈麻酔薬と筋弛緩薬を投与しマスク換気し始めると,帰国子女のアンヌ先生が手術室に現れた。
「諸星先生,遅くなってすみません。幼稚園の送迎バスがなかなか来なくて」
「いやいや,ちょうど良かった。この患者,総入れ歯で自分の歯は1本もないから挿管してくれていいよ」
「えー? いいんですか? ありがとうございます」
アンヌ先生の喉頭鏡での挿管試技は1回目は舌を充分よけられずに失敗した。2回目も失敗したら喉頭鏡を取り上げようと決めていたが,何とか2回目で挿管できた。
「先生,次はラリンジアルマスクの練習もさせてください」
私は「うん,適当な症例があればね」と大嘘をついた。
冗談じゃない。産休明けでリハビリ中,しかも麻酔科医になるつもりもない君たちにLMAは任せられない。LMAの挿入自体は問題ないが,麻酔維持中が怖い。LMAのフィットが悪くなってくると,LMAそのものが気道を塞いでしまう。気管挿管ならその心配がない。私が麻酔維持を彼女たちに任せられるのは挿管されて人工呼吸器に乗っている症例だけだ。
私は「セボフルレンは2%以上にしないように。何かあったらすぐに僕を呼ぶように。呼ぼうかどうしようか迷ったら必ず呼ぶように。それと,今日は人手不足だから昼食交代は20分で我慢して」と言い残してB室を出た。
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