注:私は「麻酔医」という呼び名は嫌いですが,外科医の言葉としてあえて時々使っています。
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「閣下,お話があります」
「何事だ,オーベル」
「前にも申し上げましたが,私の姓は大鈴(おおすず)です」
「私はただの上級教授に過ぎないが,軍オタの卿は私のことを閣下と呼ぶ。それは一向に構わん。しかし卿は陰で私のことをラインハルと呼んでいるそうだな。私はその呼び名も嫌いではないが,その呼び方を公式に許しているのはここにいる,幼なじみの吉瑠陽(きるひ)だけだ。卿が私のことを正しく線張(せんはる)と呼ばずにラインハルと呼ぶのなら,私が卿のことをオーベルと呼んでも差し支えあるまい」
「承知しました」
「ところで,話とはなんだ」
「自由麻酔同盟と呼称するグループに属する医師のひとりが,当院でバイト麻酔医として週一回働きたいと申し入れてきました」
「はて,それは筋違いというものだ。我が大傳(おおでん)大学病院で麻酔医として働きたいというのなら,当院の麻酔科に申し入れるべきであろう」
「その麻酔医は我が第二外科の手術に関してのみ麻酔を担当したいと申しております」
「ほう,これはどういうことだと思う? キルヒ?」
「ラインハル様の名声がフリーター麻酔科医達にも知れ渡ったということでしょう」
「そいつの名はなんという」
「矢武上利一です」
「やむうえりいち?,呼びにくい名だな」
「親しい人間にはヤン先生と呼ばれているようです」
「そうか,では我々もヤンと呼ぼう。オーベル,我々がそのヤンとかいう麻酔医を勝手に雇い,第二外科だけの麻酔を担当させたなら,当院麻酔科の金木一門が黙っていまい?」
「麻酔科のゴールデンバ…,いや金木教授は確かに病院長でもありますが,かつてのような権勢は見る影もありません。金木教授は心ある部下の諫言には耳を貸さないどころか彼らを遠ざけ,世辞の巧みな者だけを重用しています。その結果,有能な麻酔科医が次々と去っていったのはご存じの通りです」
「そう言えば『忠誠心というものは,その価値を理解できる人物に対して捧げられるもの』と言い残して去っていった麻酔科医もいたな。金木がおのれの人徳のなさで重臣に人を得ないのは自業自得だが,こちらも迷惑だ。手術待機患者は山ほどいるというのに,麻酔医不足のせいで手術枠が埋まらぬ。週三回の第二外科の手術枠は本来2列ずつのはずが,火曜と木曜は実質1列の状態が続いておる。しかし,だからといって勝手に麻酔医を雇って手術枠を埋めれば金木一門との波風は避けられぬ」
「閣下,我々と麻酔科はもともと良好な関係になく,いまさら金木一門に気を遣ってもこちらに破格の恩恵を恵んでくれるわけではありません。それにすでに先例があります。眼科では小児の斜視手術に限定した麻酔医を外部委託しています」
「あの麻酔医は眼科の緑丘教授の娘だ」
「術者の肉親だからといって専属の麻酔医が特別に許されるという道理はありません。眼科で認められるのなら,我が第二外科でも認められるはずです」
「ふむ,確かにそうだ。しかし小児の斜視手術専門とは考えたな。患者入れ替えの時間を考慮しても午前中だけで4,5件はこなせるはずだ」
「緑丘教授の娘は午後3時には帰宅しているそうです。そんな甘ったれた雇い方が許されるのなら,週一とはいえフルタイムで働く専属麻酔医を雇うことを忌避されるいわれはありません」
「卿の言い分はわかった。ところで,そのヤンとやらは何曜日に勤務してくれるのだ?」
「月曜日を希望しております」
「それはまずい。月曜日には我々の手術枠はない」
「問題ありません。月曜日は耳鼻咽喉科の枠が空いています。それを借りるのです」
「借りる? 我が第二外科の火曜か木曜の枠1列を月曜日に移せばすむことではないか?」
「閣下,それをしてはなりません」
「何? してはならぬ? そうか,わかった。さすがはオーベル,欲が深いな。我々が得た麻酔医はあくまでプラスアルファということだな」
「そういうことです」
「だが,耳鼻科がそう簡単に首を縦に振るとは思えぬが」
「耳鼻科の月曜日の手術枠が稼働していないのは麻酔医不足のせいではありません。一昨年からの開業ラッシュのせいで耳鼻科に術者がいなくなったためです。月曜日にかぎらず手術室は空室だらけでオペ室看護師も余っています。手術室の効率的利用を訴えれば誰も拒否することはできないでしょう」
「耳鼻科はさておき,中央手術部の部長である泌尿器科の余部(ヨブ)教授が納得すると思うか? ヤツは『麻酔医不足のせいで稼働していない火曜か木曜の手術枠を使え』と言うに決まっておろう。
「麻酔医不足のために手術枠削減を余儀なくされているのは我々だけではありません。第一外科,脳外科,産婦人科,泌尿器科,整形外科…。多くの診療科が麻酔医を欲しています。我々の本来の手術枠にヤン先生を使えば,金木一門にはその分少しだけ人的余裕が生まれます。しかし,その新たに出現した麻酔科のマンパワーは我々には向けられず,他の外科系の手術に振り分けられると考えて間違いありません。つまり,我々が麻酔医を独自に得たおかげで他の診療科は労せずして恩恵を授かることになるのです。我々にはウロやギネの手術枠を増やしてやる義理はありません。それに,ヨブ教授自身も泌尿器科専属の麻酔医を求めて全国を飛び回っているという情報も入ってきています。彼が麻酔医探しに成功した暁には,我々と同じことを考えるでしょう」
「しかし,それならヨブはヤンに他の手術の麻酔,特に泌尿器科も担当させろと言い出さないか? なにしろヤンに給料を払うのは第二外科ではなくて病院だ」
「それは各科がヤン先生に個別交渉すればいいだけです。麻酔科医は公共財ではありません。フリーの麻酔科医には,少なくとも現在は仕事のパートナーを選ぶ自由があります。確かにヤン先生に給料を払うのは病院ですが,彼の働きによって麻酔の診療報酬を得るのも病院です。給料を払う者が誰かと,希少な麻酔科医を招聘したのは誰かは切り離して考えるべきでしょう。我々は第二外科のためにフリーター麻酔科医を雇うのであって,ここの麻酔科を楽にするためではありません。第二外科本来の手術枠は,稼働しているしていないにかかわらず,手放してはなりません。一度減らされた手術枠は,将来当院の常勤麻酔科医が充足してきたときに復活するとは限りません」
「なるほど,確かにそうだな。ちょうど良い。明後日に手術部運営会議がある。出張前で忙しいが,私が会議でヨブのヤツを説き伏せるとしよう。ヨブは嫌いだが致し方ない」
「ラインハル様,その前にひとつ問題があります。そのヤン先生の麻酔科医としての力量を我々は知りません」
「キルヒ,自分から売り込んで来る医師が腕に自信がないと思うか?」
「本人の自信と実際の能力とは必ずしも相関しません」
「その点に関してですが,実はヤン先生のほうから三週間の試用期間,つまり3回の月曜日を無料で働くので自分の力量を見て欲しいと申し出ております」
「ほう,殊勝な心がけだな。ところでヤンは現在どこの病院で働いているのだ?」
「火曜日が手尼戸(てあまと)記念病院,水曜日が阿夢(あむ)市立病院,木曜日が明日館(あすたて)総合病院,金曜日が伊瀬流(いぜる)医療センターで,土日と月曜日は休みです」
「毎週三連休とは結構なご身分だな。しかしさすがはオーベル,抜かりがないな。その様子では各病院での評判も既に得ているのであろう?」
「各病院の密偵,いえ,外科医に問い合わせたところ,悪い噂は聞きません。手術が夜遅くまでかかっても嫌な顔ひとつしないそうです。麻酔科医の売り手市場をいいことに高飛車な態度をとることはないようです」
「肝心の麻酔の腕前はどうなのだ?」
「新しい麻酔方法を積極的に取り入れるほうではなく,堅実な麻酔をこころがけているとのことです。麻薬や筋弛緩薬の新薬が発売されてもすぐに飛びつきはせず,一年間は様子を見るという話です。中心静脈カテーテルや観血的動脈圧など侵襲性のあるモニターも極力避け,最近では硬膜外カテーテルも入れたがらないそうです」
「ふーん。人柄はともかく,麻酔に関しては臆病でヘタなだけではないか」
「しかし,理由はわかりませんが彼のことを『魔術師』と呼ぶ者もいるようです」
「うーむ。どう思う? キルヒ」
「臆病さは麻酔医にとって重要な資質と思われます。当院は教育病院ということもあり,未熟な麻酔医がCVカテーテルなどをやたらと入れたがりますが,そのために手術開始時刻が遅れ合併症のリスクも高まります」
「確かに当院の麻酔では侵襲的モニターのベネフィットよりリスクのほうが高いな。麻酔医がうちのビッテンのような猪突猛進型でも困る」
「ラインハル様,とにかく噂だけではわかりません。試用期間にしっかり見極めることが肝要かと」
「そうだな。早速次の月曜日からヤンを試そう。来週の手術予定の提出は今日だ。まだ間に合う。中央手術部のヨブと麻酔科の金木には私が直接話をつける。オーベル,麻酔上問題がありそうな手術症例を3例選べ。特に来週の症例は大急ぎで手配しろ。ただし,麻酔は難しくても手術は簡単な症例だ。癒着・炎症・血管浸潤など手術に支障がありそうな症例は避けろ。言うまでもなくその手術のスペシャリストを術者とし,研修医は参加させるな。若い外科医への教育的配慮は一切不要だ。ヤンに隙を見せてはならぬ」
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