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July 28, 2007

笑気な人 8

まったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。
経験が無く,想像で書いているところが多々あります。

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桐田は副院長室に戻るとPHSで黒崎を呼び,一部始終を話した。

桐田「阿武隈先生とあんなに長く話したのは初めてだが,そんなに悪い人物だとは思えなかった。麻酔科医によくある,コミュニケーションが苦手で誤解を受けやすいタイプなのかも知れない」

黒崎「オペ中の我々の雑談には乗ってこないですね。 … で,どうされます?」

桐田「隠蔽などしない。公表し,藤本さんには『喘息発作ではなく,こちらのミスでした』と謝る。配管業者にはすぐにでも連絡して,夜中でも修理させる。隠蔽なんかすると,阿武隈先生に貸しをつくるどころか借りができてしまう」

黒崎「申し訳ありません」

桐田「謝ることはない。おかげでひとりの麻酔科医の能力を評価することができたよ。お前は彼をどう評価する?」

黒崎「最初の症例の麻酔前に既に配管ミスに気づいていたのです。それだけでなく,何食わぬ顔でそのまま3例も麻酔をこなしました。外科医の私には真似できません」

桐田「彼を辞めさせる必要はないな」

黒崎は不本意ながらも「もちろんです」と答えるしかなかった。

桐田が手術室で阿武隈とかわした話の内容は詳しく聞かせてもらったので,数々の疑問点が解けたが,黒崎はただひとつ残っていた疑問を口にした。

黒崎「最後の手術が終わる頃にはAからCの3つの部屋の配管ミスは明らかだったのに,その後オペ室にひとり残って2時間も何を調べていたのでしょう。あとはD室を調べるだけで済んだはずです」

桐田「動かしようのない証拠をつかむまで,配管ミスという恐ろしい言葉を口にしたくなかったのかもしれない。その証拠というのが,ボロボロの酸素濃度計だったとはお粗末だがな。しかし慎重さは麻酔科医,いや医師にとって重要な資質だ。他の麻酔科医もそうだといいがな。お前,『麻酔科医の危機回避能力を試すチャンスは滅多にない』と言っていたが,まったくその通りだな。明日P大学から来る麻酔科医も試してみたくなったよ」

黒崎「まさか!」

桐田「冗談だよ。たとえ配管ミスに気づいたとしても,阿武隈先生と同じことを考えて行動できる麻酔科医は少ないだろう。でも,彼もずいぶん疲れたみたいだ」

黒崎「ここへ来る前に1階ロビーで見かけました。本当に疲れた様子で,ソファにもたれて缶コーヒーを飲んでいました」

阿武隈は夜の病院,特に1階が好きだった。受付前にも薬剤部の前にも多くの長イスがあり,誰も座っていない。自分ひとりで占領できる。それに,どこよりも静かである。空調が止まったあとでもそれほど不快な温度にはならず,こんなに居心地のいい場所はそうそう見あたらない。病院の正面玄関は既に錠がかけられ,田舎の病院にしては小綺麗な1階ロビーの照明も消えていた。明かりは非常出口の表示灯と缶飲料の自動販売機ぐらいだった。阿武隈は外来受付の前に並んだ長イスの最前列に座っていた。ここなら脚を思い切り伸ばせる。阿武隈はリクライニング,というよりもイスから半分ずれ落ちるように上体をのけぞり,吹き抜けの天井を見つめていた。ときどき缶コーヒーを口に運ぶが,それはただ唇を濡らす儀式に過ぎない。コーヒーを飲むためにそこにいるのではなく,そこに虚脱状態の身体を投げ出していても不自然でないよう,小道具として缶コーヒーを持っていた。

フリーター麻酔科医という立場を一度も引け目に感じたことのない阿武隈であったが,今日は自分が常勤医でないことを残念に思っていた。

俺が常勤医だったら,緊急手術も含め麻酔はすべて俺が担当し他の誰にも麻酔器を触らせないのに。そうすれば,交差接続のまま放っておける。次の配管工事のときに業者が勝手に直すのを待っていればいい。それまで毎日100%笑気を楽しめる。リカバリーの酸素が気になるが,あそこの中央配管を使わざるをえないような下手な覚まし方をしなければいいだけだ。局麻の手術で麻酔器の酸素を流すときも何とかごまかせばいい。「笑気も流せば鎮痛できるし全麻のコストもとれるので,100%酸素だけはやめてください」とか。

それにしても,久しぶりの笑気100%は気持ちよかった。あの呼吸困難感が何とも言えない。最近の麻酔器はどれもこれも安全装置がついていて75%の笑気しか吸えないようになっているが,やっぱ,笑気は100%に限る。しかし,今日に限ってオペ室の師長がなかなか帰ってくれず,30分しか楽しめなかったのは残念だ。まあいい。時間をつぶすために入ったD室の奥で,あの古い麻酔器を見つけたことは収穫だった。現行の麻酔器に比べて格段に小さい上に,いろんな物品が乗せられていたのでいままで麻酔器とは気づかなかった。D室の予備の麻酔器も古いが,もっと古いものがあったとはな。まさにお宝だ。あの麻酔器に純笑気防止装置が備わっているとは思えない。今日は試せなかったが,あれなら配管ミスがなくても笑気100%を楽しめるはずだ。しかしあんな奥に置いていたのでは配管が届かないし,いずれ廃棄処分になるのは間違いない。何とか引き取る方法はないか。麻酔科博物館に寄贈するとでもウソつくか。それとも他院での出張麻酔に使いたいと言ってみるか。フリーター麻酔科医が“マイ麻酔器”を所有していてもそれほど不自然ではないが,麻酔器も置いていないような病院で全麻を引き受けるという話は信憑性が低いな。

それはともかく,ここの外科医の悪運の強さにはあきれたな。配管ミスに気づいていないのに患者が無事なんて。ルームエアーでアンビューというのは賢明かも知れないが,喘息だと思って抜管かよ。診断ミスに対処ミスと,ミスが重なると好転するものなのだな。それに今日の麻酔担当が俺でなく,大学病院の若い麻酔科医だったならどうなっていたことか。酸素濃度計のない麻酔器で事前に配管ミスに気づくヤツがそうそういるとは思えない。昨日のような幸運がなければ,死者か脳死が出るだろう。死亡例が複数続いてやっと配管ミスが判明ということもあり得る。そうなると新聞沙汰は免れないし,麻酔科医だけでなく手術室責任者の管理責任も問われる。日頃から“笑気遊び”をしている俺だからこそ,配管ミスにすぐ気づいたんだ。桐田のおっさんは俺にもっと感謝するべきだな。しかしあのおっさんに「酸素も笑気も無色透明なのに,どうやって配管ミスに気づいたのか?」と聞かれたら返答に困ったかも知れないな。まさか「吸ったときの“気持ち良さ”でわかりました」とも言えないし。

とにかく今日の俺はさえていた。配管ミスに気づいた時点で騒ぎ出していたなら,俺が酸素ボンベを使って3件麻酔している間に業者が中央配管を修理してしまい,夜に純笑気を楽しむことができなくなる。とっさの判断で気づかないふりをした上,配管ミスを伏せた理由を「外科部長の立場を守るため」と装うなんて,俺にしては上出来だ。フリーター麻酔科医が外科医の社会的地位だの立場だのに気を遣うはずがないだろうに,桐田のおっさんはまんまと信じてくれ,俺の評価は高くなったようだ。


阿武隈祐造はのっそりと立ち上がり,まだ中身が半分以上残っている缶コーヒーを空き缶回収ボックスの挿入口から落とし入れると,夜間出入り口に向かった。その体格と名字から,クマさん,あるいはブークマとあだ名されることが多い阿武隈だが,彼をよく知る,麻酔科のかつての同僚たちが陰で“アブユーザー”と呼んでいることはあまり知られていない。

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終わり

「一般人」「麻酔科医」「耽溺」「誤解」などの単語がちりばめられたコメントはどうかご勘弁下さい。

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July 27, 2007

笑気な人 7

まったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。
不勉強な点,経験無くて想像で書いている点がありますが,ご容赦下さい。
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二人はA室に入った。麻酔器のセッティングは昨夜と似ていたが,麻酔器のテーブル上には電流計のような古ぼけたメーターが乗っていた。メーターには扇状に目盛りがつけられていて,数値を示すための針が扇の根本から伸びているが,針は途中で曲がっている。目盛りと針を守るためのプラスチック製透明カバーは既になく,針を直接触ることができる。

阿武隈「これは酸素濃度計です。倉庫の奥で見つけました」
阿武隈は手術部長の前では倉庫ではなくD室と呼ぶべきだったかと少し後悔した。しかし,オペ室のナースも倉庫と呼んでいる。

桐田「ちゃんと動くのか?」

阿武隈「電池は新品を入れましたがセルは古く,較正もできません。数値もあてになりませんが,二つのガスの比較ぐらいはできます」

桐田「そんな骨董品,よく見つけたな」

阿武隈「麻酔回路に接続するアダプターも見つけました。あの倉庫は宝の山です。キャリブレに時間と手間のかかる,初期のカプノメーターもありました。その他マニア垂涎のレアアイテムがたくさんあります。むやみに廃棄されないようお願いします」

桐田「ああ,考えておく」(麻酔科医の例に漏れず,オタクだったか)

阿武隈「それでは始めましょう」

阿武隈は酸素のノブを回し,見かけ上酸素100%のガスを流し始めた。数秒後に酸素濃度計の針はわずかに左へ動いた。

阿武隈「酸素100%が本当なら右へ動くはずです。針が左へ振れたということは,いま流れているガスがルームエアーより酸素濃度が低いことを表しています」

阿武隈は酸素を止め,今度は笑気のノブだけを回した。笑気のフロートが3L/minを越えるあたりから酸素のフロートも自動的に上がり始めた。

阿武隈「ご存知のように,流量計の構造上笑気100%は流せないようになっています。それでも笑気は70~75%程度の濃度にはなるはずです。ところがこのように酸素濃度計の針は右へ大きく動き,酸素濃度が高いことがわかります」

桐田は驚くふりをしながらも,(昨夜黒崎が行った実演のほうが科学的だ)と思った。

それが表情に出たのか,それとも偶然か,阿武隈は「もちろん酸素濃度計の信頼性が低く定量評価はできませんが,どちらのガスに酸素が多いかは分かります」と言い訳し,さらに「試したことはありませんが,火のついた線香かタバコにガスを吹き付けて火勢を見るという手もあります。しかし笑気にも助燃作用はあるので,不正確さは同じでしょう」とつけ加えた。

桐田「ほう,なるほど」(タバコの件は実験がしたかっただけか)

阿武隈「教科書的には亜酸化窒素には甘い香りがすると書いてありますが,僕には分かりません。もしかしたら100%笑気ではその香りを経験できるかもしれませんが,僕は別に笑気の臭いを確かめたいとは思いません」

麻酔器から伸びた蛇管の先にはマスクもついていたが,阿武隈は一度もガスを吸おうとしなかった。

桐田「無臭だと思っていたよ」(阿武隈先生はよほど笑気が嫌いと見える。そういえば麻酔科医のなかには笑気不要論者が多いらしいが,この先生もその急先鋒か)

桐田としては配管ミスの事実が自分の耳に入った以上,業者への連絡は解禁なので,笑気の講義を聞くよりも,一刻も早く配管業者に連絡したかった。確認のためとはいえ,今からすべての部屋で同じ実演を繰り返すのは勘弁して欲しかった。

桐田「他の部屋も同じなのか?」

阿武隈「ええ,ここ以外にB室,C室,それと倉庫,じゃなくてD室も確認しました。新設のリカバリーは調べていませんが,同じだと思います」

桐田「じゃ,いまから業者に連絡してもいいな」

阿武隈「もちろんです。明らかに向こうのミスです」

桐田は安堵するとともに,配管業者の責任者を怒鳴りつけるよりも先にいくつかの疑問を解消しようと思えるほど余裕が出てきた。

桐田「配管が入れ替わっていることにはいつ気がついたんだね?」

桐田は阿武隈の表情が少し変化したことに気づいた。歓迎されない質問のようだった。

阿武隈「朝,最初の症例の準備で麻酔器のチェックをしたときです」

桐田は脊髄反射的に(こっちが責める側に回れる)と喜びながら,「なぜすぐに言ってくれなかったのか」と問うた。

阿武隈「A室だけの異常かもしれないと思ったのです。他の手術室を確認して回る時間はありませんでした。それにそのときは前日や前々日に何か有害事象が起こっていないか確かめることもできませんでした」

桐田「どういうことかな」

阿武隈「僕が配管ミスの可能性を知ったのが今朝,つまり火曜の朝です。配管工事が行われた日をそのときには知りませんでしたが,大抵は予定手術のない土曜か日曜です。月曜日に予定手術がないことは知っていますが,配管工事が終了してから火曜の朝までに緊急手術が行われた可能性は十分あります。配管ミスに気づかないまま全麻の手術が行われていたなら,悲惨な結果に終わっているはずです。原因不明の呼吸不全による死亡あるいは低酸素脳症が発生していないか不安でした。僕が今朝の段階で配管ミスをみんなの前で言ったなら,迷惑する人,下手したら民事訴訟どころか刑事事件で裁かれる人がいるかもしれないと思ったのです」

桐田「仮に不幸な出来事があったとしても,責任は配管業者にあるのではないか? 酸素と表示されているところから無色透明の気体が出てきて,それを酸素だと信じることに落ち度があるとは思えない。飲食店の調理人が,水道の蛇口から出てくる無色透明の液体を水だと思って客に出したら,実は毒水だったというのと同じだと思うが」

阿武隈「今の警察や司法にそんな理論は通用しません。それに,僕は麻酔をする前に配管ミスに気づきました。工事のことを知らないバイト麻酔科医が察知できたものは他の医師でも気づくはず,いや,工事があったことを知っている常勤医だからこそ気づかなければならないと,奴らは主張するでしょう。工事終了時に各手術室で,手術部責任者が業者立ち会いのもとで配管のチェックをするべきだったと言い出す者もきっといます」

警察や司法の医療バッシングに日頃から憤っていた桐田は返す言葉を見つけられないだけでなく,「マスコミを忘れているぞ。奴らだって,配管業者ではなく間違いなく医者を叩くさ」と付け加えたいくらいだった。

阿武隈「1例目の患者さんを退室させるとき,リカバリー室の壁に新しく酸素の接続口が設置されていることに気づきました。おかげでオペ室の師長に『配管工事をいつしたの?』とさりげなく尋ねることができました。さらに,A室に続いてB室,C室と部屋が変わっても,酸素のはずのガスが笑気になっていました。これはやはり中央配管のどこかで入れ替わっていると確信しました。その後,トイレに行くフリをして昨日のイレウスの麻酔記録を見たのです」

桐田「我々をかばってくれようとしていたのか」
桐田の良心がきりきりと痛み始めた。(俺は君を試した,いや,ハメたのに)

阿武隈「いいえ,かばいきれません。不幸な患者さんが発生していた場合,隠すことは無理でしょう。こっそり配管業者を呼んで,誰も気づかないうちに配管を元に戻すことは可能かもしれませんが,いつかきっと内部告発で表面化します。僕は隠蔽の片棒を担ぐようなことはしません。こうして先生に事実を告げ,あとはお任せするだけです」

桐田「そうか。でも今回は患者はみんな無事だった。もう,こそこそしなくてもいいのじゃないか?」

阿武隈「それは先生次第です。業者を呼んでみんなの前で叱責し,イレウスの患者さんのところへ謝りにいかせ,各方面に公表するのも結構です。新しく設置したリカバリーの酸素がおかしいとだけ言って,今すぐこっそり呼び出すのも結構です。どちらでも自由にされたら良いでしょう。後者の場合はついでに手術室も確認してもらうべきだと思います。もしかしたら,向こうが勝手に気づいて密かに直すかもしれません」

桐田「隠蔽の片棒は担がないと言ったばかりじゃ…」

阿武隈「いえ,隠蔽するのは業者でしょう。僕の麻酔はいいかげんで,普段から100%酸素はあまり使わないので配管ミスに気がつかない場合もあります。他の麻酔科医が真に受けるかどうかは知りませんが。あ,それと,信じる信じないは別として,僕は口は堅い方です」

桐田は(隠し事はもうたくさんだ)とは言わず,「隠蔽工作は性に合わない」とやや本音に近いウソをついた。

阿武隈「どうぞお気の済むようにしてください。それにしても先生も災難でしたね。手術部長に就任早々」

桐田は阿武隈がさっき言った,「工事終了時に各手術室で,手術部責任者が業者立ち会いのもとで配管のチェックをするべきだった」を思い出した。(そうか配管ミス見逃しの責任は俺にあり,手術部長に就任したばかりでこの不祥事はまずかろうということか。他に適任者がいないから,副院長の俺が手術部長を兼任しているだけなのに。しかし,前任の手術部長ならこんなミスはなかったと言われるのも癪に障る)
前手術部長よりも劣ると評されるのは桐田にとって我慢のできないことであった。そんなことを考えながらも,桐田は話題を変えることにした。

桐田「ところで,酸素と笑気が入れ替わっていたなら麻酔はさぞやりにくかったのでは?」

阿武隈「ええ。麻酔そのものはたいしたことはないですが,周りに悟られないようにするのに少し苦労しました」

桐田「間質性肺炎にエアーはまだわかるが,C室では酸素でマスク換気していたような気が…」

阿武隈「見ておられたのですね。実はC室の壁にある酸素接続口にはクセがありまして,ホースのピンインデックス部分を強い力で押し込まないと接続できないのです。軽く差し込んでも見た目には接続されているように見えますが,クルマの半ドアのような状態で,酸素は流れてきません。僕はわざと半ドアの接続にして酸素,じゃなかった笑気が麻酔器に流れないようにしたのです。麻酔器の裏には万一の場合に備えて酸素ボンベが常備されています。中央配管からのガスが途絶えるととこのボンベの酸素を使うことができます。他の部屋でもボンベが使えればもっと楽だったのですが,わざわざ酸素のホースをはずしてボンベの酸素を使うのはあまりにも不自然でしたので」

桐田は(それで接続口を凝視していたのか)と納得しつつ,「ガスの配管の接続はいつも看護師がしているはずだが,そんな接続のクセをよく知っていたものだな」と,看護師が協力していないか鎌をかけた。

阿武隈「いつか,酸素のノブを回しても酸素がまったく流れなかったことがあったので,調べたら壁の接続口が原因でした」

桐田「そうだったのか。B室も同じなら,幽門側切除に笑気を使うこともなかっただろうね」

阿武隈「胃切では硬麻の効き目に自信がなかったので,笑気を使えて丁度良かったです。結局は硬麻は効いていましたけど」

桐田は他に尋ねることはなかったかと自問したが,早く切り上げて配管業者に電話を入れたかった。

桐田「それにしても今日は苦労をかけたね」

阿武隈「いいえ,それほどでも。でも少々疲れました。遅くなりましたし,もう帰ります」

桐田「ご苦労さん。ありがとう」(私も疲れたよ)

阿武隈「先生にもお疲れ様ですと言いたいところですが,まだ帰れませんね。どちらにしても業者には早く連絡したほうが良いと思います。明日も手術がありますし」

桐田「ああ,そうするよ。そして再工事後はちゃんとチェックする」

阿武隈「ええ,そうしてください。すべての麻酔器に酸素濃度計をつけることも考えてくださいね」

桐田は「もちろんだ」と言ったあと,「明日の朝,もし他院での仕事がなければ念のためにここに来て配管のチェックを一緒にしてくれないか」と頼もうとしたが思いとどまった。陥れようとした相手にそんな頼み事はできなかった。

二人は着替えを済ませ,手術室を出た。
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つづく (まだ終わっていません)

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July 26, 2007

笑気な人 6

まったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。

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桐田と黒崎はムンテラや会議などそれぞれの用事を済ませ,副院長室にいた。
二人は語彙こそ多少異なるものの,要約すれば同じ内容の疑問をかわるがわる口にし,解答例とその否定を繰り返していた。

「C室では酸素100%で換気していたが,何も起こらなかった」
「もともと配管ミスはなかった? いいや,昨日は確かに酸素と笑気が入れ替わっていた」
「C室だけ配管が正しく接続されていた? そんなはずはない。C室の麻酔器でも昨夜確認した」
「阿武隈先生が配管をつなぎ直した? そんな時間はなかったし,業者でなければ不可能だ」
「配管ミスに気づいたなら,黙っている理由はない」
「確認に2時間もかかるほどの複雑な異常なのか?」
「我々を強請る気では? 誰も被害を被っておらず,隠さねばならない秘密もないので強請りようがない。それにどうせなら配管業者を強請るだろう」

結局,普段口数の少ない阿武隈が自分から「話がある」と言ってきた以上,何か重大な内容で,それが今度の配管ミスに関係することは間違いないという結論にだけは達した。

とうとう桐田の院内PHSが鳴った。阿武隈からだった。

桐田は人差し指は口に当て,黒崎に「声を出すな」と合図をしてPHSを耳にあてた。電話は,会話というよりも桐田が2,3回短い返事をしただけで終わった。

桐田「ひとりでオペ室に来てくれと言ってきた。誰にも言わず,見られないようにとのことだ」

黒崎「私が行かなくても良いのでしょうか。ことの起こりは私が変な気を起こしたから…」

桐田「とりあえず,まだ帰らずに院内にいてくれ。何かあったら連絡する。

黒崎「わかりました」

桐田は黒崎を先に退室させ,1分ほどたってから副院長室を出た。そして手術室に向かう間,またしてもいろいろな可能性を考えた。(何か肝心なことを忘れていないか) しかし結局,桐田は考えることをやめにした。(そうだ,患者はみんな無事だったんだ。気にすることは何もない)

手術室の受付には明かりが灯っているが,昨夜と同じで手術室のナース達は既に全員帰ったようだった。男子更衣室に入ると同時に阿武隈がソファ立ち上がり,桐田がひとりで来たことを確認すると口を開いた。

阿武隈「酸素と亜酸化窒素が中央配管のなかで入れ替わっています。いわゆる交差接続です」

桐田「え?」
桐田はうまく驚きの表情を出すことができたか不安だったが,阿武隈は桐田の表情を詮索することなく,「土曜日に配管の工事があったそうですね。きっとそのとき入れ替わったのです。とにかく着替えて下さい。一緒に確認しましょう」とまくしたてた。

桐田は(昨日とまったく同じ展開だ)と思いながら小さく「ああ」と頷き,ネクタイを外し始めた。桐田が着替える間にも阿武隈の話は続いた。

阿武隈「昨日のイレウスの麻酔チャートと看護記録を見ました。最後に低酸素になりましたね。先生方は喘息と診断したようですが,誰かパイピングを聴取しました? あるいはカプノメーターで波形の変化を確認しました?」

桐田「いいや,あっという間に悪くなったので何も確認できなかった」これは本当だった。

阿武隈「おそらくあれは喘息ではなかったのです。純酸素の代わりに純笑気を吸わされたせいです。先生方は気管チューブの刺激が喘息の原因と判断して抜管したようですね。そして麻酔器の酸素を使わずアンビューをルームエアーで使いました。結果的にはこれが大正解で患者さんは助かりました。先生方も患者さんも運が良かったとしか言えません」

桐田にとっては予想通りの展開だったので少し余裕が出てきた。そのため,答えを知っている質問を投げかけることができた。

桐田「しかし,100%酸素は麻酔導入時にも使うだろう。麻酔の開始時には低酸素にはならなかったのだが」

阿武隈「麻酔を担当したのは沢村先生ですね。麻酔には慣れていると聞いています。しかし僕の推測ですが,プレオキシジェネーションが不十分だった,つまり100%笑気の投与が不十分だったと思われます。そこへクラッシュ挿管で,挿管後ただちに酸素/笑気の比率を1:1にすれば低酸素は免れます」

桐田はもう少しで「正解」と声にしそうだった。

阿武隈「ここでも運に恵まれました。僕ならイレウスに笑気は使いません」

桐田は黒崎が「阿武隈先生は,『いまだに笑気を使っている』と,我々を馬鹿にしています」と言ったことを思い出した。

桐田の着替えはほぼ終わりかけていた。

阿武隈「ところで,先生はタバコ吸われます?」

桐田「いいや。昔は吸っていたが…。タバコが何か関係するのか?」

阿武隈「いいえ,あれば1本いただこうかと。でも,なければいいです」

桐田「タバコを吸うとは知らなかった」(それに今頃なんだ? 今から手術室に入るんじゃなかったのか)

桐田は帽子とマスクを手にしたところだったが,阿武隈は「いいえ,吸いません。さあ,それではA室に行きましょう」と言い残して手術室に入っていった。

桐田はタバコを何に使うつもりだったのか尋ねることもできず,マスクの紐を頭の後ろで結びながら手術室に向かった。

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つづく

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July 25, 2007

笑気な人 5

まったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。

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桐田と黒崎の二人がストレッチャーに続いてC室に入ると,阿武隈の姿が見あたらなかった。腹腔鏡下手術の際には内視鏡用モニターのラックが2台,それも術者から見やすいようにラックの高い位置にモニターが置かれているため,部屋の見通しは悪くなる。阿武隈はモニター機器の影になるところで壁際によりかかり,麻酔器から伸びたホースが接続している中央配管接続口を見つめている。それも,接続部に髪の毛1本でも挟まっていても見つけられるぐらいの至近距離で。

桐田と黒崎はもう目を見合わすことすらしなかった。(バレバレだ)

あとは阿武隈がいつ配管ミスのことを口にするかという,時間の問題だと桐田は期待した。そうすれば配管業者に連絡を入れることができる。しかし,阿武隈は何も言わず麻酔導入にとりかかった。

ルーチンのモニター類が装着されると,阿武隈はマスクを患者の顔にかぶせ,酸素のノブを回してフロートを6L/minまで上げ,セボフルランも流し始めた。そしていつものように静脈麻酔薬と筋弛緩薬を静脈ルートから投与した。

桐田も黒崎も(配管ミスに気づいているのだから,いつまでも100%の笑気を投与するはずがない)と思いながら見ていたが,阿武隈は流量計には触らず,そのままマスク換気を始めた。SpO2は100%を表示しており,血行動態も安定している。

気管挿管が完了すると阿武隈は流量計を動かし,空気3L/min,酸素3L/minに調節した。いまの麻酔器では酸素は笑気なので,空気3L/min+笑気3L/minになる。黒崎は計算しやすいように空気中の酸素濃度を20%として暗算をした。空気3L/minということは酸素は3×0.2=0.6L/min,全体で6L/minだから,0.6/6=0.1,つまり実際の酸素濃度は10%にしかならない。(ルームエアーの半分の酸素濃度だ。しかし,SpO2は100%を維持している)

他の外科医たちは手洗い場に向かった。この手術では桐田は手洗いをしないことになっていた。黒崎は患者の観察と,もしもの場合の対処は桐田にまかせることにして自分も手洗い場にゆっくり向かった。

桐田は何が何だかわからなくなっていた。(この部屋だけ配管ミスが直っている? 阿武隈が修理した? そんなことができるのか? ピンインデックスを細工した? いいや,緑色のホースは酸素の接続口につながっている。中央配管が直ったとしか思えない)

桐田は黒崎の意見も聞きたがったが,もう二人で秘密の会話をすることはできなくなった。黒崎が手洗いを終えてC室に戻ってきても,ガスは空気3L/min,酸素3L/minのままでSpO2も100%を維持していた。黒崎もいろいろな可能性を考えたが,正解らしきものは思いつくことができず,気持ちを切り替えて手術に集中することにした。(手術が無事に終わればそれでいい。ラパコレなんかでポカミスをしては目も当てられない)

気腹を開始するとともに,ETCO2とSpO2に多少の変化は見られたが,阿武隈がレスピレーターを調節したため,術者が手を止めるほどの変動には至らなかった。桐田は生体情報モニターを気にしていたが,呼吸・循環ともに常に安定していた。少なくとも今のガス流量が維持されている限り,患者に危険が及ぶことはなさそうに思えた。(自分がいなくても大丈夫だ。それならこっそりここを抜け出て,A室やB室で配管のチェックをすることができる)。しかし,今日の役目を終えた他のオペ室では麻酔器の配管はすべてはずされ,部屋の明かりも消えている。オペ室ナースの目を盗んで麻酔器を触ることなど不可能で,見つかった場合の言い訳も思いつかなかった。桐田は他室の酸素のチェックをあきらめ,腹腔鏡のモニター映像を見ることにした。桐田の網膜は腹腔内の映像を結んでいたが,頭の中は(業者になんと説明するか,いや,本当に配管ミスなのか? 阿武隈は何を知っていて何をしたのか?)で占められていた。

桐田には手術がいつもより長く感じたが,ほぼ予定通りに終了した。気腹が終了するとSpO2は100%に上昇した。酸素+空気だったガスは導入時と同じの酸素のみ6L/min,配管ミスのままだとしたら笑気のみ6L/minで流されていた。患者の覚醒も問題なく,型どおりの吸引・リバースに続いて抜管した後も,自発呼吸でSpO2は100%を維持していた。

手袋と術衣を脱ぎ,再び配管のことを気にするようになった黒崎も,いま流れている気体が笑気ではなく酸素であることを確信していた。

その日の最後の手術患者が若い外科医らとともに手術室を出て行くのを見送った後,桐田は手術室の廊下で途方に暮れていた。阿武隈に話すべきか,話すとしたら何をどう話せばよいものかと。しかし,話しかけてきたのは阿武隈のほうだった。

阿武隈は小声で「桐田先生,今日は何時頃まで病院におられます? ちょっとお話があるのですが」

桐田「まだまだ帰らないが,何かな? 今じゃだめなのかね?」

阿武隈「ええ,いろいろと調べなくてはならないことがありまして,今から2時間あるいはもっとかかると思います」

桐田「そんなに? まあいい。私もいろいろと片付けねばならない仕事がたくさんあるので大丈夫だ」

阿武隈「助かります。調べ物が終わったら連絡します。院内PHSはお持ちですよね」

桐田「ああ,番号表ならその辺の内線電話の近くに必ず貼ってある」

阿武隈「わかりました。では,のちほど」

桐田「とりあえず,ご苦労さん。ありがとう」

阿武隈「お疲れ様でした」

桐田は安堵した。(すべてが解決しそうだ。業者にも連絡できる)。患者とともに先に病棟に向かった黒崎にも早くこのことを伝えようと,桐田は着替えを急いで手術室を出た。(手術は3例とも有害事象など起こらず,誰かが窮地に立たされるわけはない。そしてきっと謎も解ける) 桐田の気持ちはずいぶん軽くなった。 ただし気がかりがないわけではなかった。(2時間あるいはもっと?。配管ミスのチェックに2時間以上もかかるのか? それに,そんな遅い時刻に配管業者に連絡はつくだろうか? いまのうちに電話を入れておくか? いや,だめだ。俺はまだ配管ミスに気づいていないことになっている。そもそも配管ミスそのものが本当にあるのか?)

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つづく

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July 24, 2007

笑気な人 4

まったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。

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胃幽門側切除術も何のトラブルもなく進んだ。桐田と黒崎は時折モニターや麻酔器に視線を移しながらも,大半の時間はいつもと同じように手術に集中した。そして最後の閉腹は若い外科医にまかせ,自分たちは手袋と術衣を脱いで切除標本を見たり,研修医のナートを心配そうに眺めたりしていた。もちろん,阿武隈が流量計の酸素のノブに手をかける瞬間を見逃さないよう,麻酔器も視野のなかに入れていた。

あと2,3分で皮膚の縫合も終了するかと思われた頃,阿武隈はセボフルランの気化器を回してオフにし,流量計のノブに手を伸ばした。流量計のフロートが動き,笑気6L/min,酸素2L/minのところで安定した。

阿武隈が気管内吸引の準備や輸液残量の確認などに忙しく,周りを見る余裕がないのをいいことに桐田と黒崎は顔を見合わせた。酸素と笑気が入れ替わったこの麻酔器で達成可能な最高酸素濃度は75%で,そのためには笑気:酸素を3:1(実際の比率は逆)にしなければならないことを,二人とも昨日の実演で承知していた。そして二人は確信した。(手術終了時に笑気濃度を上げる麻酔科医はいない。阿武隈は配管ミスに気づいている)と。

若い外科医たちが最後の縫合を終え「ありがとうございました」と手術終了を告げると,外回りの看護師と阿武隈が「お疲れ様でした」と返した。覆布や離被架が取り除かれ,創部にはガーゼが絆創膏で手早く固定されていく。

麻酔器のテーブルの上に置かれた,フェルトペンでリバースと書かれたシリンジは既に空であった。阿武隈は口腔内の吸引をしながら,「すぐに抜管できるから,ストレッチャーを入れて」とナースに指示した。そして患者の筋力や応答を確認すると,ただちに抜管した。抜管後も笑気と酸素の比率は同じであったが,誰もが退室準備に忙しく,桐田と黒崎以外に気づいている者はいないように思えた。抜管後にSpO2は99%から97%に落ちたが,阿武隈は少し聴診しただけで観察を続けようともせず「モニターを全部外して」と言った。

患者のからだからモニター類が外されるころにはストレッチャーが運ばれて来て手術台の横につけられた。ストレッチャーの頭側にはボンベ用ラックが取り付けられており,そのなかに酸素ボンベが立っている。阿武隈はボンベから伸びたフェイスマスクを素早く手に取るとバルブを回して酸素を6L/minで流し,麻酔回路のマスクと取り替えた。桐田も黒崎も,阿武隈がただちに麻酔器の流量ノブを回して笑気と酸素を停止する瞬間を見た。二人には,阿武隈が「早くボンベの酸素を使いたい」かのように思えた。

患者が手術室を退室すると,阿武隈はC室に入っていった。次にこの部屋で行われる腹腔鏡下胆摘術の麻酔準備をするためであった。C室は明かりが消えており,自動ドアの窓は真っ暗だったが,阿武隈がスイッチを入れたらしく四角い窓が明るくなった。桐田と黒崎は手術室の廊下で来週の手術のことなどを話していたが,C室の窓が点灯するのを合図とするように黒崎は話題を変えた。

黒崎「やっぱり気づいていますね」

桐田「間違いない。でも,なぜ黙っているんだ?」

黒崎「我々があの先生を試したように,あの先生も誰かを試そうとしているのではないですか?」

桐田「誰だ? 俺たちか?」

黒崎「明日はP大学から麻酔科医が来ます」

桐田「そんな馬鹿な! 医者になって3年目くらいの未熟なヤツが来ることもあるのに」

黒崎「緊急手術では我々が麻酔をすることも,あの先生は知っています。配管ミスを知っていながら黙っているなんて犯罪行為です」

桐田「それはジョークか?」

黒崎の表情が曇った。自分たちも同罪だと今気づいたようだった。
桐田は黒崎を責めることを避けるため,話の方向を変えた。

桐田「このままでは配管業者に連絡することができない。誰も配管ミスに気づいていないことになっているのに,業者を呼ぶわけにはいかない」

黒崎「すみません。やはり昨日の時点で業者を呼びつけるべきでした」

桐田は結局黒崎を責めることになったと少し悔やんだが,そこまで配慮する余裕のないことを感じ始めていた。

桐田「とにかく,3例目が終わるのを待とう。それまでに何かアイデアが浮かぶかもしれない。今よりも状況が悪化することもないだろう」

そのとき,3例目の患者を乗せたストレッチャーが入ってきた。

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つづく

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July 23, 2007

笑気な人 3

まったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。

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乳房切除術では桐田も黒崎も手洗いをせず,執刀している若い外科医にときどきアドバイスを(するフリを)しながら,SpO2の値に気を配っていた。生体情報モニターを凝視しているところを阿武隈に察知されないよう気をつけつつ,横目でちらちらSpO2の値を追い求めていた。しかしSpO2の低下はなく,手術は何の有害事象も起こらずに無事終了した。
結局,阿武隈は一度も酸素のノブも笑気のノブも触らず,セボフルランとフェンタニルと空気だけで麻酔を行い,マスキュラックスも挿管時に投与しただけだった。抜管後も酸素のノブには触れず,フェイスマスクからは空気5L/minを流していた。しかし,病棟での酸素の指示をオペ室ナースに尋ねられると,「酸素3L/min」と答えた。

患者が手術室を退室するのを見送った後,オペ室の廊下に人気がいないことを確認して桐田はやっと話を切り出した。

桐田「阿武隈先生は気づいている。間質性肺炎だからといって,最初から最後までFIO2が21%なんておかしい」

黒崎「間質性肺炎では空気のみで換気するのが麻酔科の常識なのか質問しようとしたのですが,聞きそびれました」

桐田「あんなに自信満々でさらりと言われると聞きにくいな。我々が配管ミスを知っていることを怪しまれそうだし」

黒崎「とにかく,あの先生が配管ミスに気づいているなら言うはずです。いや,大騒ぎするでしょう。黙っている理由はありません」

桐田「じゃあ,なぜ病棟での酸素は3L/minと指示したんだ」

黒崎「わかりませんが,いつもより少ないことは確かです。あの先生の術後酸素の指示は普通は6L/minです。病棟に上がってから間質性肺炎が悪化しても自分の責任ではないからではないですか。間質性肺炎の悪化よりも術後早期の低酸素が怖いとか。あの先生はこの病院の看護体制を信頼していないようですし」

桐田「自分がそばにいるときはルームエアーでも構わないが,自分の目の届かないところでは念のため酸素を投与するということか。ありえない話ではないな」

黒崎「次の幽門側切除の患者さんには呼吸器疾患はありません。きっと酸素を使うはずです」

桐田「もし酸素を使わなければ…」

黒崎「ええ,配管ミスに気づいていることになります」

そのとき更衣室のドアが開いて阿武隈が出てきたので二人は会話を止めた。阿武隈は先ほどの手術が行われたA室のすぐ隣のB室に入っていった。胃幽門側切除術はB室で予定されていた。

やがて患者用出入り口が開き,患者を乗せたストレッチャーがB室に入っていった。ルーチンのモニター類を装着された患者は側臥位になり,硬膜外カテーテル挿入の体位をとらされた。阿武隈が全神経を患者の背中に集中させて手技を行っている間,桐田は麻酔器の裏に立ち,壁の接続口に差し込まれた3本のホースを見ていた。ここは阿武隈の位置からは麻酔器の影になって見えない。第一,阿武隈は患者の背中しか見ていない。酸素のホースは間違いなく,酸素と表示された接続口につながれている。

黒崎が昨日指摘したように,硬膜外カテーテルの挿入には時間がかかり,患者が仰臥位に戻された頃には入室から30分近く経過していた。患者が仰臥位になると同時に阿武隈は患者の顔にマスクを置き,麻酔器の流量計に手を伸ばした。そして酸素のノブを回し,フロートを上げた。と,同時に静脈ラインの三方活栓から麻酔薬を次々と投与していった。体位変換が終わったばかりでパルスオキシメーターの波形は乱れていて,SpO2の値もまだ安定していない。桐田が(なんてせっかちなんだ)と思った瞬間,阿武隈は腕時計を見ながら「幽門狭窄があるのでクラッシュ挿管にします」と宣言した。モニターを見つめSpO2の値が落ち着くのを待っていた黒崎はふいをつかれたものの,すぐに気を取り直し「クリコイド,圧迫しましょうか?」と申し出たが,阿武隈は迷うことなく「いいえ,結構です。僕はあれの有効性を信じていません」とさらりと答えた。

桐田も黒崎も昨日のイレウスを思い出していた。酸素の代わりに笑気100%を投与された患者はSpO2が下がってくる。昨日の麻酔を担当した沢村は,静脈麻酔薬の呼吸抑制と筋弛緩による低換気がSpO2の低下をもたらしたと判断して挿管したが,実は筋弛緩がまだ効いていなかった患者は挿管の刺激で手術台から落ちるのではないかと思われるほどの体動を示した。そのため,ただちに笑気,実際には酸素を投与されたために低酸素にならなかった。黒崎は,そんな幸運は今回は期待できないことを確信していた。黒崎は阿武隈が笑気を滅多に使用しないことを知っていた。しかし黒崎が流量計を見ると,いつのまにか酸素3L/min,笑気3L/minになっていた。

黒崎が頭のなかで(そんな馬鹿な!)と叫びながら桐田を見ると,桐田も同じ事を感じたようだった。

パルスオキシメーターがリズミカルに音を刻み,SpO2の値が安定してきた。97%を示している。阿武隈は腕時計と患者の胸とモニターを交互に見ていた。桐田にはずいぶん長い時間に感じた。SpO2はやや下がり,95%を表示した。桐田がマスクに目をやると,マスクには阿武隈の手は添えられておらず,患者の鼻の上に置かれているだけだった。蛇管の太さと蛇管ホルダーの径が合っておらず,蛇管はホルダーにしっかり固定されていない。マスクは蛇管の重みで右にずれ,左側は顔とマスクの間が大きく開いていた。マスクがそんなにずれていていいのかと,桐田らが疑問を感じ始めたそのとき,阿武隈が落ち着いた手つきでさも簡単そうに挿管した。そして聴診で確認することもなくチューブを口角に固定すると,ただちにレスピレーターを作動させた。

ここの手術室では外科医は麻酔科医の気管挿管を見届けるとすぐに手洗いに行くというのが暗黙のルールであり,若い外科医二人が手洗い場に向かったが,桐田と黒崎は患者の腕を乗せる手台の角度や皮切の位置などを確認しつつ,麻酔器の流量計と気化器を見ていた。阿武隈は麻酔チャートに書き込むのに忙しそうで,二人には背を向けていた。ガスは酸素3L/min,笑気3L/minのままで,セボフルランは1.5%だった。

桐田と黒崎は他の外科医やナースよりも遅れて手洗いを始めたため,最後は手洗い場に二人となり,廊下にも他の人影はなくなった。

桐田「クラッシュ導入しなければならないほどピロステはひどかったのか?」

黒崎「いいえ。少し狭いことは狭いですが,通過障害をきたすほどではなく,嘔吐したこともありません。ただ,カルテには確かに幽門狭窄とは書きました」

桐田「クラッシュ導入の是非はともかく,ほとんど前酸素化をしなかったぞ」

黒崎「それだけではありません。普段笑気を使わないのに,今日は使っています」

桐田「すると,やはり感づいているのか」

黒崎「わかりません。手術が終わったらはっきりするはずです。麻酔覚醒時には酸素100%を流すはずです」

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つづく

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July 22, 2007

笑気な人 2

以下はまったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。
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先月まで手術部長でもあった泌尿器科部長が辞めたため,外科部長だけでなく今月から手術部長も兼任することになった桐田は朝になっても迷っていた。「手術部の責任者がこんなことをしていいのか」「いや,手術部の責任者だからこそ,麻酔科医の危機管理能力を評価せねばならない」 しかし,もう迷っている段階ではなかった。今になって配管ミスを言い出すことはあまりに不自然であった。せめて手術の順序を変更するべきだったと後悔したが,急な順序変更もまた不自然であった。1例目の乳房切除術の患者に間質性肺炎があることを思い出したのは,今朝病院に着いてからだった。

桐田は黒崎にそのことを伝えたかったが,朝から二人きりになるチャンスはなかなか訪れなかった。しかたなく桐田は副院長室に戻り,院内PHSで黒崎を呼びつけた。

桐田「1例目の山本さんには間質性肺炎があるぞ。もともとSpO2が低いのに大丈夫か」

黒崎「大丈夫です。麻酔導入時には必ず私が患者のそばにいます」

桐田「阿武隈先生はもう来ているのか?」

黒崎「さっき廊下で見かけました」

桐田「昨日,麻酔終了時に喘息発作で怖い思いをしたことを伝えておかなくていいか?」

黒崎「構いませんが,かえって不審に思われませんか?」

桐田「それもそうだが…」

黒崎「いまさら後戻りはできません。いいですか,思いこむのです。配管ミスなど考えたこともない。我々は配管ミスなど知らないと…」そして黒崎は時計を見ながら「もうすぐ出棟です。失礼します」と言い残し,副院長室を足早に出て行った。

桐田も早めに手術室に行こうとしたが,普段と違った行動をとるのを控え,いつもどおりのタイミングで手術室に向かった。阿武隈が今の時点で配管ミスに気づき,オペ室が大騒ぎになっていることを期待しつつ。

患者の入室が少し遅れたため,A室に入ったのは桐田のほうが患者よりわずかに早かった。既に黒崎もいる。桐田がいつもどおり阿武隈に「よろしくお願いします」と挨拶すると,阿武隈も薬液をシリンジ内に引きながら「ええ,よろしくお願いします」と返してきた。仕事中の口数は少ないが,挨拶は普通にしてくれる。桐田は阿武隈に無愛想という印象を持ったこともない。しかし,桐田は今回は普通の挨拶しか返ってこなかったことに落胆した。(やはり初期点検では気づけなかったのだ。初期点検そのものをしていないのかもしれない) 桐田は阿武隈に見られていないことを確認しながら,部屋の壁のガス接続部を見た。緑のホースは酸素に,青いホースは笑気に,黄色のホースは空気のところに接続されている。桐田は心のなかで「何を期待している。ピンインデックスがあるので他のつなぎ方はできないのは当たり前だ」と自分に言い聞かせた。

患者が運ばれてきた。桐田は自分の心拍数が上昇するのを感じた。患者に心電図電極やパルスオキシメーターが装着されるのを見ながら,(自分がモニターされなくて良かった)とピントはずれな考えが浮かんだ。まるでこれから始まることに目を背けるかのように。何も知らない他の若い外科医はレントゲン写真をシャウカステンに掲げ,外科医にとっては重要かもしれないが今はどうでもいいことを話している。患者の顔にはまだマスクは置かれておらず,SpO2は93%を示していた。自動血圧計が最初の測定値を表示すると,阿武隈はマスクを患者にあて,麻酔器の流量調節ノブを回し始めた。

桐田は不自然な位置にいるのを避けようと,いつもの麻酔導入時にはどこに立っていたか思い出そうとしたが,あえて移動するのをやめシャウカステンを見ることにした。そして視線を徐々にずらし,アンビューバックの入った箱がいつもの場所に置いてあるのを確認した。黒崎は麻酔器と生体情報モニターの両方が見える位置に立っている。

阿武隈が薬液を充たしたシリンジを静脈ラインに接続し,患者に声をかけながら麻酔薬を注入し始めた。
「天井を見ていてくださいね。徐々に眠たくなりますよ」

桐田の位置からはSpO2の値は見えない。阿武隈のからだが邪魔で酸素の流量計も見えない。(患者が笑気100%を吸っているなら,そろそろパルスオキシメーターの音色が変化するはずだ。いや,まだマスクと顔の間には隙間がある。ルームエアーも混ざる)。そのとき,対面にいた黒崎と目があった。何か言いたげだ。患者は呼びかけに反応がなくなり,阿武隈はマスク換気を始めた。(ついに始まった。100%笑気だ)
マスク換気を始めた阿武隈は,麻酔器の台からバイトブロックが転がり落ちたのに気づき,しゃがんでそれを拾い上げた。しゃがんだ瞬間に桐田にも流量計が見えた。フロートが上がっているのは空気だけだった。黒崎が言いたかったことが分かった。
パルスオキシメーターの音色はわずかに変化した。桐田はゆっくり移動し,モニターを見た。自発呼吸より陽圧換気がいいのかSpO2は94%を示し,音は高い方に変化したことを物語っていた。

阿武隈はいつものように落ち着いた動作で挿管し,チューブを固定したのちレスピレーターを作動させた。セボフルランの気化器は触るが,酸素のノブには一切触れず,空気のみを流していた。

そして阿武隈はこう言った。

「間質性肺炎はそれほど重症ではないようですが,念のためFiO2は低くしておきますね」

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つづく

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July 21, 2007

笑気な人 1

以下はまったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。
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「桐田先生,お話があります」

外科医の黒崎が副院長室にやってきたのは午後7時を回っていた。黒崎がこの病院にやってきて4年になる。彼が患者の治療方針などのことで副院長室のドアをノックするはずがない。外科部長でもある桐田は,(また外科医の誰かが辞めるのか)と覚悟しながら「何だ」と返すしかなかった。

「今日の藤本さんの手術のことです」

桐田は意外な切り出しに安堵しつつ,また新たな不安を感じつつ,とりあえず当たり障りのない返答をした。

桐田「ああ,最後の喘息発作にはびっくりしたな」

黒崎「その件ですが,どうやら喘息ではなかったようです」

桐田「えっ? じゃあ何だったんだ?」

黒崎「説明しますので,今からオペ室にお願いします」

部屋には二人しかいないのに黒崎の声はささやくようだった。何か重大な秘密を知ってしまったというような表情の黒崎に桐田は不安を覚えながらも,黙って黒崎の後に続き手術室に向かった。桐田と黒崎の仲は険悪どころか,うまくいっているほうだ。桐田は黒崎を信頼しているし,腕の立つ黒崎も桐田を立てることを忘れない。その黒崎が手術室へ向かう途中も一言も話さない。

桐田は自分に何か重大な落ち度があったのではと,歩きながら今日の手術のことを思い出していた。

月曜日の今日は本来手術はなかったが,緊急のイレウス解除術が行われた。この病院には常勤麻酔科医はおらず,パートの麻酔科医に週3回来てもらっている。今日のようにパート麻酔科医が来ない日や夜間の緊急手術は外科医が交替で麻酔を担当していた。

イレウスの麻酔を担当したのは卒後6年目の外科医,沢村だった。沢村は2か月前にこの病院に赴任して来たばかりだが,大学で半年間の麻酔科研修を終えた直後だったためか,挿管もAライン確保も手慣れたもので,クラッシュ導入でも難なく挿管していた。術中も特に問題はなく,手術は無事終了した。ところが自発呼吸も出てきてリバースも投与し,もうすぐ抜管という時に突然SpO2の値がみるみる下がり始めた。最初は体動によってパルスオキシメーターが波形を拾えないせいかと思ったが,モニター上の波形はちゃんと表示されていた。患者は苦しそうにもだえている。桐田は喘息発作だと判断し,抜管を指示した。喘息発作が挿管チューブの刺激によるものかどうかはわからないし,喘息発作中に抜管するのは「最後の賭け」だとは十分承知していたが,実際に抜管後に発作が治まった症例を経験していた。そして30年近く前に麻酔を教えてくれた恩師の「麻酔器はブラックボックス。どこに異常があるかわからないから,もしもの時はアンビューを使え」の教えどおり,抜管後は沢村に命じてアンビューでマスク換気をさせた。黒崎には患者の聴診をまかせ,桐田自身は麻酔器のチェックをした。
抜管前は不隠だった患者は落ち着き,SpO2の値も90台前半まで回復してきた。聴診上は異常なく,麻酔器にもリークなどはなかった。結局誰も喘息特有の笛声音を聴取したわけでもなかったが,喘息発作と判断してステロイドを投与,エピネフリン皮下注をした上でオペ室を出た。病棟でのバイタルも安定しており,念のためフェイスマスクで8L/分の酸素を流していたが,SpO2の値は常に100%を示し,動脈血血液ガスの値も申し分なかった。ただ,本人と家族に尋ねても喘息の既往はないとのことだった。

桐田が「やはり自分に落ち度はない。たとえ喘息の診断が間違っていたとしても,患者は回復し後遺症もない」と自分のなかで再確認した頃,二人は手術室に着いた。例のイレウス患者が退室して3時間以上経過しており,オペ室ナースは全員が帰宅したようだ。この病院ではオペ室ナースは当直制ではなく,時間外緊急手術の場合はオンコール呼び出しである。廊下に面した更衣室や受付の窓はすべて明かりが消えて真っ暗であった。暗証番号式キーを空けて更衣室に入ると,黒崎がやっと口を開いた。

黒崎「断言はできませんが,酸素と笑気の配管が入れ替わっているようです」

桐田「え?」

黒崎「一昨日の土曜日に中央配管の工事があったでしょう。そのときに誤接続されたのだと思います」

桐田「工事した業者をいますぐ呼び出してやる」

黒崎「いえ,まだ確証はありません。とにかく一緒に確認してください」

黒崎は室内着に白衣を羽織っただけだったので着替える必要はなかった。桐田は着替えながらも,配管業者をどう罵ってやるかを考え始めていた。「危うく患者を死なせるところだった。新聞に公表してやる。メーリングリストに流してやる。知り合いの医者全員に言ってやる。ウチの病院にはもう出入り禁止だ」

桐田が着替えると,イレウス解除術が行われたA室に向かった。既に検証が行われたことを告げるように麻酔器から伸びるホースは3本とも壁の接続口につながれており,麻酔器と生体情報モニターの電源も入っていた。

黒崎はパルスオキシメーターのプローブを右手の人差し指につけ,波形と数値が安定するのを待った。規則正しいリズムで音を発するようになるとSpO2の値は99%を表示した。次に麻酔器の酸素のダイヤルを回してフロートを7L/minまであげると,蛇管の先のマスクを左手に持ち自分の口と鼻を覆うように密着させた。そしてバッグが膨らんだりしぼんだりするのを確認しながら呼吸を繰り返した。そうするとパルスオキシメーターは音色を低く変化させながら,その数値もどんどん下がっていった。SpO2が80を切った時点で黒崎はマスクをはずした。そしてルームエアーで大きく深呼吸し,SpO2が回復するのを待った。酸素のダイヤルを元に戻して今度は笑気のダイヤルだけを回してフロートを上げたが,低酸素防止機構が働いて酸素のフロートも自動的に上昇した。さっきと同じようにマスクを顔にあてて呼吸を繰り返すとSpO2は100%を示した。

黒崎「配管が正しいならこれで笑気75%,酸素25%のはずです。しかし実際の比率はこの逆で,酸素75%だと思います。酸素濃度計があればはっきりするのですが」

桐田「念のため,エアーでも試してくれ」

黒崎「わかりました」

黒崎が言われたとおりエアーのフロートだけを上昇させてマスク呼吸を試したところ,SpO2はルームエアーのときと同じ99%を表示した。

二人は他の手術室でも試したが,B室,C室,さらには現在は医療機器の倉庫として使っているD室でも結果は同じであった。各部屋の麻酔器はどれも古く酸素濃度計は元々実装されていないか,あるいは壊れていた。D室にはエアーの流量調節もない一番古い麻酔器が予備として保管されていた。

桐田の頭のなかは業者に対する怒りが大半を占めていたが,まだ冷静な部分も残っていた。

桐田「中央配管が誤接続されているのは間違いないだろう。しかし,藤本さんの麻酔導入時にも見かけは酸素100%,実際は笑気100%で呼吸していたことになる。導入時に何も起こらなかったのはなぜなんだ」

黒崎「藤本さんはイレウスだったのでクラッシュ導入でした。麻酔前の酸素投与はマスクをそれほど密着させません。マスクから流れてくるのは笑気100%でしたが,マスクの隙間からルームエアーを吸うことができます。それに,あのときはモニター装着後すぐにサクシンとイソゾールを投与しました。そしてその直後SpO2も下がってきました。サクシンとはいえ,いつもより筋弛緩が効くのが早いような気がしましたが,今から思えばSpO2の低下は筋弛緩やイソゾールのせいでなく,笑気のせいだったのです。沢村はSpO2が下がってきたのを見て,すぐに挿管しました。ほら,挿管したとたんに激しくバッキングしたでしょう。だから沢村はあわててセボフルランを投与し,酸素:笑気を3L:3Lで流し始めました。それが幸いして早期に50%の酸素が投与されたのです。SpO2が低下するほど筋弛緩が効いていたなら,あのようなバッキングは起こらなかったはずです」

桐田「そういえばfasciculationが見られなかったな。そうか,クラッシュ挿管とバッキングのおかげで気づかなかったのか」

黒崎「そして手術終了後は酸素だけを流したつもりが,実は笑気100%で呼吸させてしまったのです。挿管中でしたのでルームエアーが混じる余地はなく,酸素0%のガスです」

桐田「よく死なせずに済んだものだ」

黒崎「先生が抜管とアンビューを指示してくれたおかげです。本当は私は抜管に反対でした」

桐田「俺はてっきり喘息発作だと思ったから」

黒崎「抜管後も麻酔器の酸素を与えていたら,どうなっていたでしょうね」

桐田「ああ,恐ろしい話だ。中央配管のミスは噂では聞いたことはあるが,実際に経験するとは思わなかった。とにかく今すぐ業者を呼びつけて怒鳴ってやる。始末書を書かせるぐらいでは収まらん。下っ端だけよこしたら承知しない」

黒崎「そのことですが,先生,あわてなくてもいいのではないですか?」

桐田「どういうことだ? 明日は手術が3件あるぞ」

黒崎「酸素と笑気が入れ替わっていることを,あの阿武隈先生が気づくかどうか,見てみませんか?」

桐田「何を言ってるんだ。配管ミスがあることを黙っておいて,彼に麻酔をさせるのか! どういうつもりだ?」

黒崎「私は阿武隈先生の麻酔の技量に疑問を持っています。挿管もそれほど上手だとは思えませんし,硬膜外も我々より時間がかかることがあります。それにパーソナリティーもどうかと思います。気分にムラがあるようで,特に理由もなく硬膜外カテーテルを入れないこともあります。CVPカテーテルの挿入を頼んでも大抵は断られます。他のパート麻酔の先生は二つ返事で麻酔中にCVPを入れてくれますが,阿武隈先生の症例だけ術前に病棟で我々が局麻で入れています」

桐田「確かに硬麻を入れるのに時間がかかることはあるが,俺たちが入れる硬麻と違って,必ず効いているぞ。病棟のナースに『阿武隈先生の硬麻を見るまでは,硬麻って効くときと効かないときがあると思ってました』と言われたこともある。口数が少ないので何を考えているのか分からないところもあるが,手術が終わってもすぐには帰らず,遅い時間に術後ラウンドしてくれているのは有名だ。彼が病棟にいる間にオペ室ナースが先に帰ってしまい,更衣室に入れなくて俺がオペ室の鍵を開けたこともある」

黒崎「なかなか家に帰ろうとしないのは,夫婦仲がうまくいってないからだという噂があります。それに術後回診と言っても病院を出る前に患者の顔をチラッと見に来る程度で,それまでの時間はオペ場の休憩室でくつろいでいるという話です」

桐田「お前が阿武隈先生のことを嫌うのは勝手だが,患者を危険にさらすようなことはできない」

黒崎「こっちは答えを知っています。患者に危険が及んでも助けることは簡単です。今日と同じように,アンビューを使ってルームエアーで換気してやればいいのです」

桐田「そんなことをすれば,我々が配管ミスを知っていることがばれるぞ」

黒崎「『昨日と同じだ! また喘息だ!』と叫びながらアンビューを差し出せばいいのです。阿武隈先生が麻酔器の酸素にこだわっても,『昨日もこうしたら良くなった』で押し通しましょう。それがヒントになって阿武隈先生が配管ミスに気づけばそれもよし。最後まで気づかなかったら,その程度の麻酔科医ということです。麻酔は素人の私でも,時間はかかりましたが配管ミスに気づきました。麻酔だけで大金もらっているフリーター麻酔科医がこれに気づかないようではプロ失格ではないですか?」

桐田「プロ失格と判定できたなら,どうする? 辞めさせるのか?」

黒崎「先月からウロが引き上げ,2か月後には耳鼻科も撤退します。ウロも耳鼻科も全麻手術は多くはありませんが,手術が減るのは確かです。現在バイト麻酔は週3回来てもらっていますが,水曜日のP大学と金曜日のV大学からのパートだけで充分ではないですか? 緊急手術の麻酔は僕らがすることに変わりはないですし。第一,CVP挿入などリスクを伴う手技をしてくれないなら,麻酔を頼む意義がありません」

桐田は退職した泌尿器科部長の顔を思い浮かべた。手術部の部長であった彼と桐田はお世辞にもうまくいっていたとは言えなかった。そのおかげで外科の手術予定が組みにくいこともしばしばあったが,今月からは桐田が手術部長も兼任しているため,手術に関してはずっと仕事がやりやすくなった。しかし,副院長でもある桐田は病院の出費を抑えることも考えねばならない立場であった。パート麻酔科医に支払う給料は確かに少なくない。簡単な症例の麻酔なら外科医でできるのだから,「なるべくパート麻酔科医は呼ぶな」と事務方から圧力がかかるのは仕方ないし,桐田は病院幹部としてそれを言う立場にあった。将来,フリーターと大学派遣のどちらと縁を切るか決断せねばならない日が来ることを桐田はうすうす感じていた。

桐田「オペ室ナースが『P大学もV大学も,いろんな麻酔科医が交替で来るのでやりにくい』と漏らしていた。毎週来てくれる阿武隈先生はオペ室ナースには評判がいいのだが」

黒崎「辞めさせるかどうかはともかく,配管ミスに気づかなかった場合は,これを恥じて少しは生意気さもマシになるでしょう。もしかしたら,我々はあの先生のピンチを救い,貸しをつくれるかもしれせん。阿武隈先生は無口ですが,たまに口を開くとこちらを馬鹿にしたようなことしか言いません。我々がいまだにイソゾールや笑気を使っていることを馬鹿にしています。先月も『イレウスに笑気?』と笑われましたが,今日はまさにイレウスに笑気を使ったからこそ最悪の事態を免れたのです。笑気を馬鹿にするあの先生が,難を逃れるかどうか見てみませんか?」

桐田「いまのウチの手術室の場合,笑気を嫌うということは酸素を嫌うということか」

黒崎「麻酔科医の危機回避能力を試すチャンスなど,そうあるものではありません。明日,すべてが終わった時点で業者に連絡しましょう。患者に危害が及ぶことはまったくありません」

桐田「もし,配管ミスを知っていながら黙っていたことがばれたら…」

黒崎「配管ミスのことは先生と私以外,誰も知りません」

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つづく

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July 13, 2007

何が起こったのか 2

魚拓
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研修医の麻酔で患者が心肺停止 東京の三井記念病院 (共同通信)
 三井記念病院(東京都千代田区)は11日、70代の男性患者が昨年10月、研修中の歯科医から麻酔を受けた直後に心肺停止になる医療事故があったと発表した。研修中の歯科医は、腎臓病の外科手術で患者に全身麻酔薬を注入。男性は直後に心肺停止となり昨年末に心筋梗塞で死亡した。同病院では麻酔研修の際、指導医は恒常的に立ち会っていなかった。このため都が今年6月に改善指導していた。

[ 2007年7月11日19時37分 ]
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魚拓
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三井記念病院:歯科医の麻酔後、患者死亡 院長が謝罪会見
 東京都千代田区の三井記念病院で歯科医による全身麻酔の後、患者男性が死亡(昨年12月)した問題で、萬年徹院長が12日記者会見し、「医師の立ち会いを要するとする厚生労働省の指針に反し歯科医が単独で麻酔を行った」と問題を認め「認識が甘かった。多大なご迷惑をかけたことをおわびしたい」と謝罪した。

 萬年院長は患者の容体が急変した際に行った蘇生措置も「歯科医が単独で行った」とし、03年7月~今年6月1日、院内で研修した歯科医10人について指針で定められた研修記録をつけていなかったことも明らかにした。一方、死亡後遺族に「麻酔は医師が行った」と虚偽説明した点は「歯科医と医師を区別しなかっただけ。隠ぺいの意図はない」と述べた。【夫彰子】

毎日新聞 2007年7月12日 22時08分

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麻酔を担当していた歯科医が本当に研修中だったかどうか。初めての麻酔研修中に麻酔が好きになり,その病院の手術室でそのまま何年も麻酔科医として働く歯科医がいる。書類の上では“研修中”かもしれないが,すっかり主戦力となっている場合も少なくない。つまり実質はベテランだったため,麻酔指導医が付き添わなかった可能性もある。

あるいは本当に研修中でありながら,指導医が「恒常的に立ち会っていなかった」のか。大学病院の鵜飼い麻酔でも,しかも研修者が医師経験5年のローテーターでさえ,麻酔導入と抜管は指導医がそばにいるはずだと思うが。

麻酔担当者がベテランであろうと新米であろうと,麻酔導入直後の心停止はオオゴトである。幸いなことに私はまだ経験がない。これからも経験したくない。もしかしたら明日にでも経験するかもしれないので他人事ではない。何が起こったのかやはり気になる。冠スパズム,不整脈,動脈瘤破裂?

ニュース記事では正確な医学用語は期待できない。「全身麻酔で人工換気していたなら“心肺停止”はおかしい」と馬鹿にしつつ記事を読み直すと,「全身麻酔薬を注入直後」とある。挿管前に心停止した可能性もある。しかし,患者の併存疾患などがわからないので何とも言えないが,プロポフォールやミダゾラムの量を少々間違えても心停止にはならないはずだ。CVCIだったのだろうか?

それとも迷走神経反射か? 先日も書いたが,モニターをフルに装着され,既に挿管されている患者に反射による心停止が起こったとしてもすぐに蘇生可能で,不幸な結果にはならないと思う。

麻酔導入後セボフルランの濃度を下げるのを忘れ,しばらく5%あるいは8%で投与されたとか? よくあることだが,心停止の前に血圧低下で気がつくだろう。レスピレーターへの切り替えを忘れたなら,パルスオキシメーターの変化で察知できる。ポップオフバルブを閉じたまま放置し,バッグがぱんぱんに張って気道内圧も上昇,膨らんだ肺が心臓を圧迫したとか。

情報がないままあれこれ詮索しても仕方がないが,自分の身を守るためにも何が起こったのか知りたいところだ。

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July 08, 2007

何が起こったのか

魚拓

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全身麻酔で虫歯治療の女児、急性心不全で死亡…山梨
 山梨県は6日、県立あけぼの医療福祉センター(同県韮崎市、佐藤英貴所長)で5日、全身麻酔で虫歯の治療を受けていた同県甲斐市の女児(9)が心停止状態となり、約6時間後に死亡したと発表した。

 死因は急性心不全で韮崎署が司法解剖を行い、詳しく調べている。

 同センターによると、治療は、5日午前10時15分に全身麻酔を施された後、同50分から始まった。午後2時ごろ、突然、女児の容体が急変、心停止状態になった。一時、心拍が再開し、甲府市内の病院に搬送されたが、同7時50分過ぎに死亡が確認された。

 治療は、県歯科医師会から派遣された男性歯科医、麻酔科の女性医師ら7人が行った。女児は重度の知的障害を持ち、手術中に動いてけがをする恐れがあったため、全身麻酔を施したという。同センターは「適切な方法で治療は終盤まで順調に行われていた。どうしてこうなったか全くわからない」としている。

 同センターでは2006年度に、全身麻酔による歯の治療を16件行っている。同センターは、児童福祉法に基づいて重度の障害を持つ子どもたちの入所、通園を受け入れる施設で、県内で唯一、障害者専門の歯科を設けている。

(2007年7月6日21時42分 読売新聞)

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亡くなられた児童の冥福を祈るとともに,ご遺族にはこころよりお悔やみ申し上げます。


本来は亜酸化窒素と書くべきだろうが,ここでは笑気とする。

上の記事では児の死亡した理由がさっぱりわからない。

歯科治療の鎮痛のために笑気を使用している開業歯科医も多いと聞いている。そのようなクリニックでは患者に治療前の絶食を指示してあるのだろうか。私は虫歯の治療前に絶食というのは聞いたことがない。歯科治療の後はしばらく食べられないので直前にたらふく食べてくる患者も多いと思う。

いくつかの歯科クリニックのHPを見てみると,笑気は30%程度の低濃度で使用しているようだ。気になるのは「笑気で嘔吐反射を抑制できる」などと書いてあること。低濃度の笑気にそんな作用があるとは知らなかった。しかし嘔吐反射が抑制されるなら,喉頭蓋の機能も低下しそうだ。そうなると,嘔吐した場合に誤嚥する可能性が高くなる。つまり「嘔吐反射は抑制できるが,万一嘔吐すると非常に危険」ということになるだろう。それに,そもそも笑気はPONVのリスクファクターではなかったか。

また,急変時に備えて静脈ルートを確保しているのか疑問だ。そんなものの必要がないくらい,低濃度の笑気吸入は安全なのだろうか。

とにかく,歯科クリニックでの笑気使用は危険だと前々から思っていた。そんなことを言い出すと,「局所麻酔薬の歯肉への局注でもアナフィラキシーや局麻中毒の危険性はある。万一に備えて全例に静脈ルートを確保しろとでも言うのか」と反論されそうだ。

普通の歯科治療に静脈ルートは不要だと思うが,私が患者なら虫歯の治療に笑気吸入を勧められても断る。

さて,上の記事の山梨県立あけぼの医療福祉センターは個人の歯科クリニックではなく,立派な施設なようだし麻酔科医が麻酔を担当しているので,歯科外来での「静脈路無しフルストマック無挿管笑気麻酔」などではなく,救急薬品の揃った手術室で,術前ちゃんと絶食し静脈路も確保して気管挿管もしたはずと信じたい。

しかし,ここのHPを見てみると手術室はなさそうだ。


麻酔科医も常勤はおらず,麻酔科の女性医師は非常勤だったようだが,それは関係ない。マスコミなら「非常勤=質が低い」でストーリーを作るかもしれないが。

歯科外来のあのイスで全身麻酔を行ったのか。ある程度フラット近くにはなるだろうが,私はあまりやりたくない。アンギオ室を上回るアウェーだ。そんなところでは実力を充分発揮できない。

誤嚥の危険性はさておき,低濃度の笑気吸入で歯科治療を行えるのは,ある程度自分を抑制できる患者だと思う。重度の知的障害があれば,低濃度の笑気では体動を抑えられないはずだ。完全に意識を消失させたほうが安全に治療を行えるだろう。

このような患児にはやはり他の全麻手術に準じ,絶食した上で設備の整った手術室で挿管して歯科治療するべきだと思う。たかが数分で終わる虫歯の治療に大がかりだと思われるかもしれないが,斜視手術や鼠径ヘルニア修復術も数分で終わることもある。

あけぼの医療福祉センターでもちゃんとした全麻だったかもしれない(笑気だけでは気管挿管は無理か?)が,それならなおさら患児の死亡理由がわからなくなる。

先天性心疾患? 小児の心臓手術でもGOSでスロー導入することが多い。笑気単独で強い循環抑制が起こるとは考えにくい。

詳細がわからないので何とも言えないが,誤嚥を含む気道系のトラブルか,笑気単独の浅い麻酔のせいで迷走神経反射が起こったか。しかしECGをモニターしていれば徐脈や心停止にはすぐに気づくし,既に挿管され静脈ルートが確保されていればCPRも困難ではない。まさかECGをモニターしていなかったとか? そんなはずはない。麻酔科医の習性としてECGモニターのないところでは麻酔はしないはず。

MHやアナフィラキシーなら「どうしてこうなったかわからない」とはならないだろう。川崎病で心筋梗塞か。

とにかく,通常の全麻のセッティングで起こった悲劇なら他人事ではない。明日は我が身だ。

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July 03, 2007

ドタキャン大歓迎

常勤医だった頃,担当予定の症例が当日になって何らかの理由(Ptが熱発,他の重篤な疾患が見つかる,医療機器の不具合,Ptの急な手術拒否etc)で手術中止になると,心の中で小躍りするほどうれしかった。間違いなくその日の緊急手術要員にされるとはいえ,運が良ければ一日ゆっくりできた。

歩合制で働いている現在,手術が中止になるとその分収入は減ってしまう。しかし,いまだに急な手術中止(延期)がうれしいのは何故だろう。奴隷勤務医を長年続けたせいで,手術中止=ラッキーが本能のように染みついたのかもしれない。

手術5件の予定が1件中止になってうれしいのは当然としても,不思議なことにその日1件しか予定されていない手術のその1件が中止になっても悲しくない。わざわざ病院まで来て何もせずに帰るだけになるので,主治医や外科部長は申し訳なさそうに気遣ってくれるが,私のほうは何となくハッピーな気分である。

ただ困ったことに,複数の手術が予定されていて最初の症例が中止になっても,2例目以降が繰り上がりで早く開始されないことがある。理由としては主治医や術者の外来が終わっていない,応援術者がまだ来ない,ゲフリールがあるのに病理の医師がまだまだ来ない,などである。そのようなときに限って本や雑誌類を持って来ておらず,時間をつぶすのに苦労する。このような空き時間を上手く使ってエントリーを書けばいいのだろうが,田舎の病院の待合室でノートパソコンを開いていると目立ってしようがない。ここはやはり鉛筆とレポート用紙か。カバンに入れてもかさばらないし。

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July 01, 2007

アトロピンと緑内障

硫酸アトロピンの添付文書には緑内障には禁忌とあるが,閉塞隅角緑内障でなければ大丈夫のはずである。

併存疾患として緑内障に罹患していることが前もってわかっている場合は眼科受診させ,アトロピン使用の是非を確認することを主治医に依頼しているが,外科系医師の多くは眼科疾患を重要視していない。手術当日にカルテの片隅(看護記録の既往歴)に「緑内障」と書かれているのを見つけるというパターンがほとんどである。その緑内障が閉塞隅角かどうかわからないので,念のためリバースはしないようにしている。

しかし,本当は緑内障患者にアトロピンを使用しても問題ないと思っている。眼科医が閉塞隅角緑内障と診断しておきながらこれを放置しておくことなどまずあり得ない。いろんな患者を診なくてはならない僻地の内科医が眼圧を測定して緑内障と診断したが,閉塞隅角か開放隅角かわからないという状況もないだろう。つまり「緑内障と診断されているということは,閉塞隅角なら既にレーザー治療などを施行されており,失明のおそれのある危険な状態ではない」と信じている。危険だろうか。

アトロピンの添付文書に緑内障が禁忌とされている以上,カルテに緑内障と明記されている患者にはアトロピンを一切使用すべきではないかもしれない。しかし,リバースは我慢できても急な徐脈ではアトロピンなしではつらい。ワンショット用に薄めたプロタノールを用意しておくという手もあるが。

緑内障が既知の場合はまだ対策の立てようもあるが,本当に怖いのは閉塞隅角緑内障でありながら眼科受診をしていない症例だ。「最近目が痛く,なんとなく視野がぼやけるが歳のせいだろう。これから全麻で腹の手術を受けるのにそれどころではない。落ち着いてから眼科に行こう」というPtがいるかもしれない。

最近の医療裁判を見聞きしていると,そのうち「全麻手術後に失明したのは術前に麻酔科医が緑内障に気づかず,リバースでアトロピンを使用したため。緑内障の既往歴がなくとも,麻酔科の術前診で目の異常について詳細に問診していれば閉塞隅角緑内障の可能性を予見できたはず」などという判決が出ても不思議ではない。

筋弛緩薬がパンクロニウムからベクロニウムに切り替わって以後,リバースは一切していないという麻酔科医もいるらしいが,正解かもしれない。

しかし,「術後に病棟で呼吸が停止したのは麻酔科医がリバースを怠り筋弛緩薬の作用が残ったため」という判決が下されることも充分考えられる。

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