笑気な人 1
以下はまったくのフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません。
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「桐田先生,お話があります」
外科医の黒崎が副院長室にやってきたのは午後7時を回っていた。黒崎がこの病院にやってきて4年になる。彼が患者の治療方針などのことで副院長室のドアをノックするはずがない。外科部長でもある桐田は,(また外科医の誰かが辞めるのか)と覚悟しながら「何だ」と返すしかなかった。
「今日の藤本さんの手術のことです」
桐田は意外な切り出しに安堵しつつ,また新たな不安を感じつつ,とりあえず当たり障りのない返答をした。
桐田「ああ,最後の喘息発作にはびっくりしたな」
黒崎「その件ですが,どうやら喘息ではなかったようです」
桐田「えっ? じゃあ何だったんだ?」
黒崎「説明しますので,今からオペ室にお願いします」
部屋には二人しかいないのに黒崎の声はささやくようだった。何か重大な秘密を知ってしまったというような表情の黒崎に桐田は不安を覚えながらも,黙って黒崎の後に続き手術室に向かった。桐田と黒崎の仲は険悪どころか,うまくいっているほうだ。桐田は黒崎を信頼しているし,腕の立つ黒崎も桐田を立てることを忘れない。その黒崎が手術室へ向かう途中も一言も話さない。
桐田は自分に何か重大な落ち度があったのではと,歩きながら今日の手術のことを思い出していた。
月曜日の今日は本来手術はなかったが,緊急のイレウス解除術が行われた。この病院には常勤麻酔科医はおらず,パートの麻酔科医に週3回来てもらっている。今日のようにパート麻酔科医が来ない日や夜間の緊急手術は外科医が交替で麻酔を担当していた。
イレウスの麻酔を担当したのは卒後6年目の外科医,沢村だった。沢村は2か月前にこの病院に赴任して来たばかりだが,大学で半年間の麻酔科研修を終えた直後だったためか,挿管もAライン確保も手慣れたもので,クラッシュ導入でも難なく挿管していた。術中も特に問題はなく,手術は無事終了した。ところが自発呼吸も出てきてリバースも投与し,もうすぐ抜管という時に突然SpO2の値がみるみる下がり始めた。最初は体動によってパルスオキシメーターが波形を拾えないせいかと思ったが,モニター上の波形はちゃんと表示されていた。患者は苦しそうにもだえている。桐田は喘息発作だと判断し,抜管を指示した。喘息発作が挿管チューブの刺激によるものかどうかはわからないし,喘息発作中に抜管するのは「最後の賭け」だとは十分承知していたが,実際に抜管後に発作が治まった症例を経験していた。そして30年近く前に麻酔を教えてくれた恩師の「麻酔器はブラックボックス。どこに異常があるかわからないから,もしもの時はアンビューを使え」の教えどおり,抜管後は沢村に命じてアンビューでマスク換気をさせた。黒崎には患者の聴診をまかせ,桐田自身は麻酔器のチェックをした。
抜管前は不隠だった患者は落ち着き,SpO2の値も90台前半まで回復してきた。聴診上は異常なく,麻酔器にもリークなどはなかった。結局誰も喘息特有の笛声音を聴取したわけでもなかったが,喘息発作と判断してステロイドを投与,エピネフリン皮下注をした上でオペ室を出た。病棟でのバイタルも安定しており,念のためフェイスマスクで8L/分の酸素を流していたが,SpO2の値は常に100%を示し,動脈血血液ガスの値も申し分なかった。ただ,本人と家族に尋ねても喘息の既往はないとのことだった。
桐田が「やはり自分に落ち度はない。たとえ喘息の診断が間違っていたとしても,患者は回復し後遺症もない」と自分のなかで再確認した頃,二人は手術室に着いた。例のイレウス患者が退室して3時間以上経過しており,オペ室ナースは全員が帰宅したようだ。この病院ではオペ室ナースは当直制ではなく,時間外緊急手術の場合はオンコール呼び出しである。廊下に面した更衣室や受付の窓はすべて明かりが消えて真っ暗であった。暗証番号式キーを空けて更衣室に入ると,黒崎がやっと口を開いた。
黒崎「断言はできませんが,酸素と笑気の配管が入れ替わっているようです」
桐田「え?」
黒崎「一昨日の土曜日に中央配管の工事があったでしょう。そのときに誤接続されたのだと思います」
桐田「工事した業者をいますぐ呼び出してやる」
黒崎「いえ,まだ確証はありません。とにかく一緒に確認してください」
黒崎は室内着に白衣を羽織っただけだったので着替える必要はなかった。桐田は着替えながらも,配管業者をどう罵ってやるかを考え始めていた。「危うく患者を死なせるところだった。新聞に公表してやる。メーリングリストに流してやる。知り合いの医者全員に言ってやる。ウチの病院にはもう出入り禁止だ」
桐田が着替えると,イレウス解除術が行われたA室に向かった。既に検証が行われたことを告げるように麻酔器から伸びるホースは3本とも壁の接続口につながれており,麻酔器と生体情報モニターの電源も入っていた。
黒崎はパルスオキシメーターのプローブを右手の人差し指につけ,波形と数値が安定するのを待った。規則正しいリズムで音を発するようになるとSpO2の値は99%を表示した。次に麻酔器の酸素のダイヤルを回してフロートを7L/minまであげると,蛇管の先のマスクを左手に持ち自分の口と鼻を覆うように密着させた。そしてバッグが膨らんだりしぼんだりするのを確認しながら呼吸を繰り返した。そうするとパルスオキシメーターは音色を低く変化させながら,その数値もどんどん下がっていった。SpO2が80を切った時点で黒崎はマスクをはずした。そしてルームエアーで大きく深呼吸し,SpO2が回復するのを待った。酸素のダイヤルを元に戻して今度は笑気のダイヤルだけを回してフロートを上げたが,低酸素防止機構が働いて酸素のフロートも自動的に上昇した。さっきと同じようにマスクを顔にあてて呼吸を繰り返すとSpO2は100%を示した。
黒崎「配管が正しいならこれで笑気75%,酸素25%のはずです。しかし実際の比率はこの逆で,酸素75%だと思います。酸素濃度計があればはっきりするのですが」
桐田「念のため,エアーでも試してくれ」
黒崎「わかりました」
黒崎が言われたとおりエアーのフロートだけを上昇させてマスク呼吸を試したところ,SpO2はルームエアーのときと同じ99%を表示した。
二人は他の手術室でも試したが,B室,C室,さらには現在は医療機器の倉庫として使っているD室でも結果は同じであった。各部屋の麻酔器はどれも古く酸素濃度計は元々実装されていないか,あるいは壊れていた。D室にはエアーの流量調節もない一番古い麻酔器が予備として保管されていた。
桐田の頭のなかは業者に対する怒りが大半を占めていたが,まだ冷静な部分も残っていた。
桐田「中央配管が誤接続されているのは間違いないだろう。しかし,藤本さんの麻酔導入時にも見かけは酸素100%,実際は笑気100%で呼吸していたことになる。導入時に何も起こらなかったのはなぜなんだ」
黒崎「藤本さんはイレウスだったのでクラッシュ導入でした。麻酔前の酸素投与はマスクをそれほど密着させません。マスクから流れてくるのは笑気100%でしたが,マスクの隙間からルームエアーを吸うことができます。それに,あのときはモニター装着後すぐにサクシンとイソゾールを投与しました。そしてその直後SpO2も下がってきました。サクシンとはいえ,いつもより筋弛緩が効くのが早いような気がしましたが,今から思えばSpO2の低下は筋弛緩やイソゾールのせいでなく,笑気のせいだったのです。沢村はSpO2が下がってきたのを見て,すぐに挿管しました。ほら,挿管したとたんに激しくバッキングしたでしょう。だから沢村はあわててセボフルランを投与し,酸素:笑気を3L:3Lで流し始めました。それが幸いして早期に50%の酸素が投与されたのです。SpO2が低下するほど筋弛緩が効いていたなら,あのようなバッキングは起こらなかったはずです」
桐田「そういえばfasciculationが見られなかったな。そうか,クラッシュ挿管とバッキングのおかげで気づかなかったのか」
黒崎「そして手術終了後は酸素だけを流したつもりが,実は笑気100%で呼吸させてしまったのです。挿管中でしたのでルームエアーが混じる余地はなく,酸素0%のガスです」
桐田「よく死なせずに済んだものだ」
黒崎「先生が抜管とアンビューを指示してくれたおかげです。本当は私は抜管に反対でした」
桐田「俺はてっきり喘息発作だと思ったから」
黒崎「抜管後も麻酔器の酸素を与えていたら,どうなっていたでしょうね」
桐田「ああ,恐ろしい話だ。中央配管のミスは噂では聞いたことはあるが,実際に経験するとは思わなかった。とにかく今すぐ業者を呼びつけて怒鳴ってやる。始末書を書かせるぐらいでは収まらん。下っ端だけよこしたら承知しない」
黒崎「そのことですが,先生,あわてなくてもいいのではないですか?」
桐田「どういうことだ? 明日は手術が3件あるぞ」
黒崎「酸素と笑気が入れ替わっていることを,あの阿武隈先生が気づくかどうか,見てみませんか?」
桐田「何を言ってるんだ。配管ミスがあることを黙っておいて,彼に麻酔をさせるのか! どういうつもりだ?」
黒崎「私は阿武隈先生の麻酔の技量に疑問を持っています。挿管もそれほど上手だとは思えませんし,硬膜外も我々より時間がかかることがあります。それにパーソナリティーもどうかと思います。気分にムラがあるようで,特に理由もなく硬膜外カテーテルを入れないこともあります。CVPカテーテルの挿入を頼んでも大抵は断られます。他のパート麻酔の先生は二つ返事で麻酔中にCVPを入れてくれますが,阿武隈先生の症例だけ術前に病棟で我々が局麻で入れています」
桐田「確かに硬麻を入れるのに時間がかかることはあるが,俺たちが入れる硬麻と違って,必ず効いているぞ。病棟のナースに『阿武隈先生の硬麻を見るまでは,硬麻って効くときと効かないときがあると思ってました』と言われたこともある。口数が少ないので何を考えているのか分からないところもあるが,手術が終わってもすぐには帰らず,遅い時間に術後ラウンドしてくれているのは有名だ。彼が病棟にいる間にオペ室ナースが先に帰ってしまい,更衣室に入れなくて俺がオペ室の鍵を開けたこともある」
黒崎「なかなか家に帰ろうとしないのは,夫婦仲がうまくいってないからだという噂があります。それに術後回診と言っても病院を出る前に患者の顔をチラッと見に来る程度で,それまでの時間はオペ場の休憩室でくつろいでいるという話です」
桐田「お前が阿武隈先生のことを嫌うのは勝手だが,患者を危険にさらすようなことはできない」
黒崎「こっちは答えを知っています。患者に危険が及んでも助けることは簡単です。今日と同じように,アンビューを使ってルームエアーで換気してやればいいのです」
桐田「そんなことをすれば,我々が配管ミスを知っていることがばれるぞ」
黒崎「『昨日と同じだ! また喘息だ!』と叫びながらアンビューを差し出せばいいのです。阿武隈先生が麻酔器の酸素にこだわっても,『昨日もこうしたら良くなった』で押し通しましょう。それがヒントになって阿武隈先生が配管ミスに気づけばそれもよし。最後まで気づかなかったら,その程度の麻酔科医ということです。麻酔は素人の私でも,時間はかかりましたが配管ミスに気づきました。麻酔だけで大金もらっているフリーター麻酔科医がこれに気づかないようではプロ失格ではないですか?」
桐田「プロ失格と判定できたなら,どうする? 辞めさせるのか?」
黒崎「先月からウロが引き上げ,2か月後には耳鼻科も撤退します。ウロも耳鼻科も全麻手術は多くはありませんが,手術が減るのは確かです。現在バイト麻酔は週3回来てもらっていますが,水曜日のP大学と金曜日のV大学からのパートだけで充分ではないですか? 緊急手術の麻酔は僕らがすることに変わりはないですし。第一,CVP挿入などリスクを伴う手技をしてくれないなら,麻酔を頼む意義がありません」
桐田は退職した泌尿器科部長の顔を思い浮かべた。手術部の部長であった彼と桐田はお世辞にもうまくいっていたとは言えなかった。そのおかげで外科の手術予定が組みにくいこともしばしばあったが,今月からは桐田が手術部長も兼任しているため,手術に関してはずっと仕事がやりやすくなった。しかし,副院長でもある桐田は病院の出費を抑えることも考えねばならない立場であった。パート麻酔科医に支払う給料は確かに少なくない。簡単な症例の麻酔なら外科医でできるのだから,「なるべくパート麻酔科医は呼ぶな」と事務方から圧力がかかるのは仕方ないし,桐田は病院幹部としてそれを言う立場にあった。将来,フリーターと大学派遣のどちらと縁を切るか決断せねばならない日が来ることを桐田はうすうす感じていた。
桐田「オペ室ナースが『P大学もV大学も,いろんな麻酔科医が交替で来るのでやりにくい』と漏らしていた。毎週来てくれる阿武隈先生はオペ室ナースには評判がいいのだが」
黒崎「辞めさせるかどうかはともかく,配管ミスに気づかなかった場合は,これを恥じて少しは生意気さもマシになるでしょう。もしかしたら,我々はあの先生のピンチを救い,貸しをつくれるかもしれせん。阿武隈先生は無口ですが,たまに口を開くとこちらを馬鹿にしたようなことしか言いません。我々がいまだにイソゾールや笑気を使っていることを馬鹿にしています。先月も『イレウスに笑気?』と笑われましたが,今日はまさにイレウスに笑気を使ったからこそ最悪の事態を免れたのです。笑気を馬鹿にするあの先生が,難を逃れるかどうか見てみませんか?」
桐田「いまのウチの手術室の場合,笑気を嫌うということは酸素を嫌うということか」
黒崎「麻酔科医の危機回避能力を試すチャンスなど,そうあるものではありません。明日,すべてが終わった時点で業者に連絡しましょう。患者に危害が及ぶことはまったくありません」
桐田「もし,配管ミスを知っていながら黙っていたことがばれたら…」
黒崎「配管ミスのことは先生と私以外,誰も知りません」
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つづく
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Comments
酸素、笑気の配管ミスが有ろうが無かろうが、
工事直後にガスの確認をする必要がありますね。
また、酸素ガスの確認をSpO2でおこなうのは、
誤りですね。
まあ、桐田、黒崎の医療レベルを下げた設定の
ようですが。
Posted by: 森 広 | July 24, 2007 at 06:51 PM